“能にして能にあらず”と言われる「翁」は、そのものが天下太平や国土安穏を祈祷する神事とされています。普通の能とは一線を画し、特にストーリーもありません。観阿弥、世阿弥が今の能のかたちへ集大成する以前からずっと神事であり、当初は神官が勤めていました。正月や舞台開きほか、お祝い事の催しに演じられ、すべての能に先立って行われます。
演者はいずれも演じる前から精進潔斎に入ります。本式には、シテは舞台前の7日間、獣畜を食べず、身につけずという精進潔斎の生活を送り、またシテを含む主な登場人物は、前夜に「別火」といって他の人の使う火を遠ざけるなど、大変厳しい内容です。現在は、多少略儀にする場合もあるようです。
上演当日には、鏡の間に「翁飾り」の祭壇が設けられ、翁や黒式尉の面を入れた面箱、舞台で使われる持ち物が、お供え物と並べられます。出演者全員が、舞台を勤める前にお神酒をいただき、身を清める「お盃事」を行うのが習わしです。囃子方が音を奏でる「お調べ」、火打石で身を清める「切り火」の後、面箱の持ち手を先頭に出演者が橋がかりを進み、舞台に入ります。これを「翁わたり」と言い、観客も参加する儀式的な演出です。面を舞台上でかけるのも「翁」の特徴です。これは人間から神への変身を表すと言われます。