能の演目の多くは、平家物語や今昔物語など、室町時代に庶民の間で人気があった古典を題材としています。そして曲の進行と構成の違いから、「現在能」と「夢幻能」に分けることができます。「現在能」では、現在進行形で話が進んでいきます。「夢幻能」は、演目の中で現実と夢が交差して話が進行するので、物語を追いかけるのはちょっと大変ですが、どの曲も構成が似ているので、パターンとして捉えることができます。
旅人がある土地を訪ねて、土地の者に出会う
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その者が土地にゆかりの出来事や人物について話す
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最後に、「私こそ、そのゆかりの者だ」と言い残して消える
ここまでの前半を「前場」といいます。この後、主人公がいったん幕の中に入り、「中入り」となります。
中入りの後、再度主人公が登場し、物語の後半「
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旅人の夢の中にその者の霊が現れ、昔の出来事について舞ってみせ、旅人の夢が覚めるとともに、消えていく
それでは、実際の作品をもとに、この構成についてみてみましょう。
ここでは、「井筒」という作品をとり上げます。「井筒」は、伊勢物語を典拠とする世阿弥の夢幻能の代表作です。物語のあらすじは、次のようになっています。
[前場]
ある秋の日、旅の僧が初瀬参りへの途中に、大和の国の在原寺に立ち寄り、寺にゆかりのある在原業平とその妻の冥福を祈っていると、ひとりの里女が現れます。
女は、井戸の水を汲み、古めかしい塚に手向けると、僧に、業平は他の女性のもとにも通っていたが、そんなときも業平を気遣う娘の真心に打たれ、その娘のもとに帰ったのだ、と告げます。さらに、「ふたりはもともと幼馴染であり、この井戸のそばでよく遊んでいたのだが、成人して夫婦となった。自分こそは、井筒の女といわれた有常の娘だ」と正体を明かし、姿を消します。
[中入り]
[後場]
僧は、寺に来た里人から井筒の女の話を聞き、その化身を弔うことにします。僧が仮寝をしていると、夢の中に井筒の女が現れ、業平の形見の衣装を身に着けながら舞いを舞います。そして、井戸に自らの姿を映しては業平の面影を求めるのでした。やがて夜が明け、井筒の女は姿を消し、僧も夢から覚めていきます。
この話では、前場で、里女が旅の僧に業平と井筒の女のエピソードを語り、「実は自分がその井筒の女の霊だ」と正体を告げ、消えていきます。中入り後、後場では、井筒の女の霊が旅の僧の夢に現れ、業平の形見の衣装を身に付け、在りし日の業平を慕いながら舞うという展開です。昼間、旅僧の前に現実の女として現れた井筒の霊が、夜には旅僧の夢に昔の姿で現れるという夢幻能の形式となっています。
夢幻能が、死者の霊、怨霊などこの世の者ではないものをシテとする能であるのに対し、実際に存在する人たちが登場し、時間の経過とともに話が展開する能の形式を「現在能」と呼びます。行方不明になった子どもを探して狂女となった母親の物語である「隅田川」「三井寺」「桜川」ほか、西国へ逃れようとする源義経一行の物語「船弁慶」などがあります。
能では、主人公を「シテ」と呼びます。演じる役柄は、神、亡霊の武者、亡霊の女、狂女、現実の男性、女性などに加え、天狗や龍神など超自然的な存在の場合もあります。物語の前場のシテは「前シテ」、後場のシテは「
能は「シテ中心主義」とも言われ、シテは一曲の主役であると同時に演出家でもあり、奏演者のキャスティング、どう演出するかなど演目全体の決定権をもっています。
シテの相手役を「ワキ」といいます。「ワキ」はほとんど全ての能に登場する、非常に重要な役柄です。旅する僧侶、主役の仇など様々な役を演じますが、シテと違うのは、「生きている人物」という点です。シテに遭遇するワキは生身の人間であり、多くの能で、死者が生きている人間に魂の救済を求めるという図式になるのです。
能では、シテとワキのふたりだけで進行することも珍しくないほど、最小限の
また、シテの連れを「ツレ」、相手役であるワキの連れのような役を「ワキツレ」、シテのお供のような役は「トモ」といいます。また、子どもが扮する役を「
夢幻能で、前場と後場をつなぎ、経過した内容を説明したり、ワキへアドバイスしたりするために、狂言師が登場する場合がありますが、これを「
能は、シテが演じる役柄によって「
また正式な五番立ての前には「翁」が演じられます。「翁」は、翁猿楽の流れをくむとされ、「能にして能にあらず」といわれて一般の能とは区別されて、常に演能の頭に上演されます。神聖な儀式として大切に扱われており、今でも正月や記念の会、祝賀の会などでは、初番目物の前に、「翁」が上演されます。