日向国(主に今の宮崎県)、桜の馬場の西に、母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。その家の子、桜子(さくらご)は、母の労苦に心を痛め、みずから人商人(ひとあきんど)に身を売ります。人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、悲しみに心を乱し、泣きながら家を飛び出して、桜子を尋ねる旅に出ました。
それから三年。桜子は、遠く常陸国(主に今の茨城県)の磯辺寺の住職に弟子入りしていました。春の花盛り、住職は桜子らとともに、近隣の花の名所、その名も桜川に花見に出かけます。折しも桜川のほとりには、長い旅を経た桜子の母がたどり着いていました。
狂女となった母は、川面に散る桜の花びらを網で掬い、狂う有様を見せていたのです。住職がわけを聞くと、母は別れた子、桜子に縁のある花を粗末に出来ないと語ります。そして落花に誘われるように、桜子への想いを募らせて狂乱の極みとなります。
やがて母は住職が連れてきた子と対面します。その子が桜子であるとわかり、母は正気に戻って嬉し涙を流し、親子は連れ立って帰ります。後に母も出家して、仏の恵みを得たことから、親子の道は本当に有難いという教訓が語られます。
子どもと離れ離れになった母が、狂乱して子を尋ね歩く、子別れの狂女物のひとつです。子と母は最後の最後に巡り合うというハッピーエンドの物語ですが、その過程で母をいたわる健気な子、子を一心に思う母の人情がきめ細かく織りなされ、見る人の胸に迫ります。
しかしそれ以上に、この曲の味わいを深めるのは、“桜”を大本に据えた濃淡の多彩な色づけです。昔の人の調べたところによれば、この曲に桜11種類、桜の字が48字、花の字は53字出てくるそうです。別れた子の名は「桜子」、母子の故郷は「桜の馬場」、そして物語佳境の舞台は「桜川」。ことに花吹雪の乱れ落ちる桜川と母の心理を重ねて描写する謡は、母の狂乱の舞姿に呼応して、殊更に美しくもはかなく切ない詩情を表します。これもまた、能にしかできない表現と言えます。特に、クセから網ノ段と呼ばれる特別な舞、謡どころは必見です。
古来より、日本人が大切にしてきた桜。その花にまつわる深々とした情感を、能独特の手法でじっくりとお楽しみいただけます。
また花を材とする「桜川」と月をあしらう狂女物の「三井寺」とは、折りに触れてよく対比されますので、見比べてみると能の面白さも、ひときわ深まることでしょう。
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