ある春のこと。男(または僧)が男の子を拾い、その子を連れて京都・嵯峨野の寺で催される大念仏に参加します。そこへ百万という狂女が現れ、念仏の唱え方がなっていないと言い、見本を示すように、音頭を取って念仏を唱え始めました。そのうちに百万は、子どもと生き別れて正気を失ったことを語りつつ狂乱し、子どもに逢わせてくださいと、仏に祈るのでした。
子どもは、しばらくその様子を眺めていましたが、自分の母親だと気づき、同行の男(僧)に、それとなく尋ねるよう頼みます。男(僧)は、百万に出身地や正気を失った理由について問いただします。すると百万は、自分は奈良の者であるが、夫とは死別し、一人の子がいたが生き別れたことを語り、人前で恥をさらすようなまねをするのも子どもと逢うためだと言って、さまざまな舞を舞います。
悲痛なその姿に、男(僧)は心を動かされ、男の子を百万に逢わせます。百万は喜び、親子は仏法の功徳に感謝し、連れ立って奈良へ帰りました。
「百万」は、子別れの狂女物の代表曲で、人気があり、頻繁に上演されています。観阿弥原作の「嵯峨物狂」という曲を世阿弥が改作したものです。曲名でもある主人公の百万は、曲舞(くせまい)の舞い手として実在したという伝承があります。
舞台になる嵯峨野の清凉寺は、もともとは源融の山荘のあった場所にあります。そこには棲霞寺(せいかじ)というお寺が作られていました。宋の時代の中国で修行した奝然(ちょうねん)という僧が、インドで釈迦在世中に作成されたとの由来のある釈尊像の模像を安置する寺の建立を志し、後に弟子によって棲霞寺の境内の中に五台山清凉寺として建立されたのです。清凉寺では鎌倉時代に融通念仏が盛んになり、大念仏の行事が行われるようになりました。大念仏の創始者と言われる円覚上人には、釈尊の法力により生き別れた母と再会するという話が伝わっています。また念仏を広める策として始められた無言仮面劇の“嵯峨大念仏狂言”は、今も年数回行われています。
こうした背景のもとで展開される「百万」の物語は、別離した母子の劇的な再会というテーマはあるものの、舞の名手、百万の芸能をふんだんに見せる、いわゆる芸尽くしの性格の強い曲です。百万が登場して念仏を唱えるところから、「車ノ段」「笹ノ段」「イロエ」「クセ」「立廻リ/カケリ/イロエ」へと、謡の聴きどころ、舞の見どころが豊富に連なっています。
桜に彩られた春の嵯峨野の情景のなかで展開される、歌舞の数々をお楽しみください。
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