ある秋の夕暮れのことです。諸国を旅する僧が須磨の浦(今の神戸市須磨区付近)を訪れます。僧は、磯辺にいわくありげな松があるのに気づき、土地の者にその謂れを尋ねたところ、その松は松風、村雨という名をもつふたりの若い海人の姉妹の旧跡で、彼女らの墓標であると教えられます。僧は、経を上げてふたりの霊を弔った後、一軒の塩屋に宿を取ろうと主を待ちます。そこに、月下の汐汲みを終えた若く美しい女がふたり、汐汲車を引いて帰ってきました。
僧はふたりに一夜の宿を乞い、中に入ってから、この地にゆかりのある在原行平(ありわらのゆきひら)の詠んだ和歌を引き、さらに松風、村雨の旧跡の松を弔ったと語りました。すると女たちは急に泣き出してしまいます。僧がそのわけを聞くと、ふたりは行平から寵愛を受けた松風、村雨の亡霊だと明かし、行平の思い出と彼の死で終わった恋を語るのでした。
姉の松風は、行平の形見の狩衣と烏帽子を身に着けて、恋の思い出に浸るのですが、やがて半狂乱となり、松を行平だと思い込んで、すがり付こうとします。村雨はそれをなだめるのですが、恋に焦がれた松風は、その恋情を託すかのように、狂おしく舞い進みます。やがて夜が明けるころ、松風は妄執に悩む身の供養を僧に頼み、ふたりの海人は夢の中へと姿を消します。そのあとには村雨の音にも聞こえた、松を渡る風ばかりが残るのでした。
この作品は、もともと田楽の役者である喜阿弥(きあみ:亀阿弥とも)が作った「汐汲」という能を、観阿弥が「松風村雨」という曲に改作したものを、世阿弥がさらに手を入れた秋の季節曲です。昔から、「熊野(ゆや)松風は(に)米の飯」(三度のご飯と同じくらい飽きのこないことのたとえ)と言われるほどで、春の季節曲である熊野と並び、非常に高い人気があります。
「松風」では恋慕の情の表現が際立ち、うねるようなその変化が、ほかにないような面白さを導き出しています。松風、村雨が昔を思ってさめざめと涙するところにはじまり、行平の形見を松風が懐かしむクセの場面、その形見を着た松風が松の立ち木を行平と思う場面を経て、「中の舞」「破の舞」へ至ります。次第に感情が高ぶり、恋慕がすっかりあらわになり、極まっていくのですが、その底にはあくまでも位のしっかりした三番目物のしっとりした雰囲気が流れ、深々とした緊張感が漲ります。
またその前には、美しい女たちが秋の夕べに月を汲み運ぶ幻想的な場面も用意されています。このすべてが一場で展開する夢幻能の恋物語に浸れば、ひと時、この憂き世を忘れることができるでしょう。
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