能は、奈良時代に中国から渡来した「
その後、散楽は幾多の変遷を経ながら、能と狂言の要素をもつ「
「能」という言葉がいつから出てきたのかは、はっきりしませんが、古くから芝居のことを示す言葉として使われていたようです。南北朝から室町時代には、能は概ね「猿楽能」と「
猿楽、田楽ともに、当時は、「猿楽の座」「田楽の座」という座組みがあり、座頭である棟梁を頂いた芸能の共同体ができていました。特に、猿楽が盛んだった大和の国では、大和四座といわれる
それぞれの座は、都に上り、活躍することを悲願としていたようです。そのためには、当時開催されていた「
大和四座のひとつ、結崎座の創立者、
観阿弥の子・世阿弥は、父の芸能を受け継いだ能の大成者です。室町幕府の3代将軍足利義満や二条良基ら時の権力者たちのバックアップを得た世阿弥は、ライバルの芸を取り入れながら、幽玄の美学による「複式夢幻能」の様式を確立し、代表作の「井筒」をはじめ、50曲以上の作品を創作しました。これらは、今でもほぼ当時のままの詞章で上演されています。
世阿弥の没後も、甥・音阿弥、娘婿・金春禅竹などにより、能は発展を続けますが、応仁の乱による都の荒廃とともに衰退していきます。再び能に光を当てたのは、戦国時代に活躍した武将たちでした。なかでも天下統一を果たした豊臣秀吉はことさら能に興じ、金春大夫を重用して能を深く学び、自らも舞い、自分の功績をテーマにした能まで作らせたと記録されています。
続く徳川幕府も、能を保護しました。2代将軍徳川秀忠は、能と狂言を幕府の式楽と定め、大和猿楽四座と喜多流が公認されました。これにより、能の社会的地位が確立されたわけですが、能は庶民の間でも根強い人気を持っていました。一方、式楽として公認されたことで、能は芸術的により洗練されたものとなったものの、中世期のような創作力を発揮する機会が失われてゆきました。
徳川幕府の瓦解とともに崩壊の危機を迎えた能ですが、明治期には、新たに財閥や政府要人のバックアップも得て、一般の人びとが楽しめる芸能として、盛り返します。家元制度の導入、能と狂言を合わせて「能楽」としたこと、能舞台を屋内に組み込む能楽堂という舞台形態の確立は、明治期以降になされたものです。現在では、近代的に生まれ変わった家元制度のもと、能は「謡」や「仕舞」のお稽古事としても、裾野を広げています。