トップページへ
SITE MAP
FEATURE
能の世界
世阿弥のことば
能の海外交流
能楽トリビア
DATABASE
演目事典
能面事典
用語事典
全国能楽堂マップ
PEOPLE
能を支える人びと
能楽師に聞く
名人列伝
ESSAY わたしと能
INFOMATION
公演スケジュール
能楽関連イベント情報
能楽メディア情報
クレジット

協賛者リスト

能楽名人列伝

十四世喜多六平太(能心)(1874年〜1971年)

三時代を生きた小柄な巨匠

十四世喜多六平太
十四世喜多六平太ポートレイト(早稲田大学演劇博物館所蔵)

能楽シテ方喜多流にとって、明治維新後の動乱期に十四世喜多六平太を戴いたことは、僥倖であった。彼によって流儀は救われ、多くの優れた弟子が育ち、喜多流を盛り立てていくことになる。明治、大正、昭和の三時代を生きた十四世六平太は、能楽界を代表する人物のひとりとして、永く記憶に留められるであろう。

明治維新で存亡の危機に直面した能楽各流派のうち、シテ方では特に、喜多流が大変厳しい状況に追い込まれた。江戸末期に活躍した十二世喜多六平太能静(のうせい)は、明治二年(1869年)に亡くなった。跡継ぎの養子は、遊興にかまけて先祖伝来の面、装束を売り払うなど、無茶苦茶な有様で家を存続できず、廃流に近い状態となる。有力な高弟も渡し守や警官に転じて、暮らしを立てていた。

そのような混乱期の明治七年(1874年)、十四世喜多六平太は、旧幕臣、宇都野家の二男に生まれる。幼名を千代造といった。十二世能静の三女、まつが当主・宇都野鶴五郎に嫁いでおり、千代造は能静の外孫であった。世間が落ち着いてくると、流儀の高弟を中心に喜多家復興の気運が盛り上がった。能静の外孫から家元を立てる話がまとまり、二男の千代造に白羽の矢が立つ。明治十二年(1879年)、稚い千代造は、喜多家に入籍した。初舞台は明治十五年(1882年)、鞍馬天狗の子方であった。

江戸時代には将軍家のみならず、各藩主も能を愛好したが、その流れのまま明治以降も、旧藩主で能を好み、支援する者がいた。そのうち、元伊勢津藩主の藤堂高潔伯爵は喜多流免許皆伝の技量を持ち、喜多流復興に多大な貢献を果たした。幼い千代造に稽古の場を与え、みずから親しく稽古をつけた。千代造の初舞台、鞍馬天狗でシテを務めたのも、この人である。

明治十七年(1884年)、千代造は10歳で十四世喜多宗家を継ぎ、継襲披露能で鷺を披いた。このとき宝生九郎知栄が望月を、梅若実が住吉詣を舞ったという。さぞ華やかな披露能であったろう。翌年には石橋を披くが、これは、先代から芸を継いだ藤堂伯爵から習った。その後、猩々乱、翁、道成寺を次々と披き、若き家元として実力をつけ、明治二十七年(1894年)、二十歳のときに六平太を襲名した。

六平太は家元とはいっても、廃流寸前であったから、幼少期から、弟子筋や分家に教わるよりほかはなかった。これは六平太に大変な苦労をもたらした。後に、自分ほど師匠をたくさん持った者はめったにないだろう、各人の主張、型、稽古のやり方の違いに悩まされた、との旨を述懐している。ただ、だからこそ師のいずれにも拠り、拠らない自分の芸ができ、旧態になじまず、我流に堕すことなく、芸風を起こし芸格を保つことの大切さを悟った、とも語っている。

青壮年期の六平太は、他流の名人との舞台を数多く勤め、芸の追求に励んだ。他流のよいところを、柔軟に吸収する貪欲さがあった。年長の弟子筋からもの申されても、妥協しなかったという。ことに明治三名人のひとり、桜間伴馬(左陣)の技には影響を受けたようだ。明治四十一年(1908年)、行啓能に烏頭を舞い、時の英照皇太后から「うとうは六平太に限る」との激賞を得ている。大正、昭和と経るうちに名手ぶりに磨きがかかり、養子に迎えた喜多実と後藤得三の兄弟をはじめ、実力ある弟子も順調に育っていく。

関東大震災、第2次世界大戦で二度舞台を失うなどの苦難も乗り越え、戦後の六平太は齢七十を越えてなお、数多く能を舞い、喝采を浴びた。昭和二十六年(1951年)には喜寿の記念能に鷺を勤めた。昭和二十八年(1953年)に文化勲章を受章、翌年の祝賀能に翁白式を勤めた。昭和三十年(1955年)、重要無形文化財保持認定いわゆる人間国宝となり、祝賀能で景清を舞う。最後の演能は昭和三十三年(1958年)、鉄輪の後シテであった。その後も仕舞や舞囃子は演じ、齢九十の声を聞く昭和三十八年(1963年)まで、公式の舞台に立った。その後も後進の指導を行うなど矍鑠と活動し、昭和四十六年(1971年)、95年を越える生涯を閉じた。

六平太の舞台を目の当たりにした人たちによって、その至芸は、さまざまに語り伝えられている。六平太の身長は150センチくらい。小柄であったが、舞台上では幾倍にも大きく見え、非常にスケールが大きかったという。技の利くことは天下一品。思わず固唾を呑む、驚異的な所作で観客を魅了し、一人一芸ともいえる独自性を発揮したとも伝えられる。

六平太の実際の舞い姿は、映像作品に残されている。八十有余歳の六平太が、鋭く長刀や剣を振るい、厳しく舞台を駆ける。二次元の映像だが、端々に漲る力が飛び出してくるような、その迫力に驚嘆した。実際の舞台の凄みは、いかばかりであったろうか。

彼は自分の足跡とともに、流儀や芸、能楽人士などを『六平太藝談』にまとめている。高弟の後藤得三と、流友の歌人・土岐善麿の編集により、語り口そのままの雰囲気がある。また、小説家・三島由紀夫の対談集にも登場し、三島を呑み込むように能の芸、自分の芸を語っている。こうした書物を通して、能楽の近代史の息吹を活き活きと後世に伝えてくれた。誠に有難いことである。


【参考文献】

【参考DVD】

 

免責事項お問い合わせリンク許可運営会社
Copyright© 2024 CaliberCast, Ltd All right reserved.