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宝生新朔(1836年〜1898年)明治の能を引き立てた、ワキの大名人宝生新朔(しんさく)は本名を喜勢太郎といい、ワキ方の下掛宝生流八世宗家である。江戸時代に生まれ、明治時代半ばまで活躍した。激動期の明治の能を、その至芸を通して、ワキの立場からしっかり支えた人物である。1836年(天保7年)に生を享け、名人の誉れ高い祖父、六世宝生新之丞(しんのじょう)の薫陶を受けて下掛宝生流の正統な芸を身につけた。江戸幕府が催す能に精勤し、重い役も勤め、幕末までにその名手ぶりは光を放つようになった。 明治の能楽不遇の時代でも演能に出勤し、宝生新朔は押しも押されもせぬ明治能楽の名人として、さらに名声を高めていった。シテを食ってしまう存在感があり、シテ方能楽師のなかには、それを嫌って同じ舞台に立つのを回避した、という話もあるほどだ。シテ方明治三名人よりも一枚上手だった、と言明する古老もある。 明治能楽の拠点となった芝能楽堂で、伝説の舞台を見せている。宝生新朔がワキを勤めた「檀風*」は、立錐の余地のない観客で埋まり、その芸に魅せられて人々は水を打ったように静かに観賞した。着物を抱えるシーンでは、本物の死骸を抱えるかのような重みが感じられたという。 新朔の芸は、生来の恵まれた素質を開花させた円熟の極みにあり、威風堂々ながら円みのある、スケールの大きなものであったようだ。人柄はおおらかで、稽古は懇切丁寧だったと、指導を受けた人物の評がある。芸の鍛錬に余念がなく、次のような話も伝わる。新朔が、教授に行ったある家の廊下で、足の運びを練習していた。そこの家人が不審に思って聞くと、自宅が狭く、足運びを稽古できる場所がない、そこで御宅の廊下をお借りしていると返した。名人にしてなお、そのひたむきな姿勢に家人は驚嘆した。 新朔が生涯を閉じたのは1898年(明治31年)。早くに妻子をなくし、再婚もしなかったことから、弟の金五郎が養子となって家督を継いだ。金五郎も名手であったが、新朔と異なり、角を含み気迫を押し出したものであったらしい。金五郎の息子、新朔の孫(実際は甥)が、明治末から大正・昭和期に活躍した名人、宝生新(あらた/しん)であり、こちらは新朔の円みのある深い芸風を受け継いだと言われている。 謡曲を教えに行った松山では、少年期の高浜虚子、河東碧梧桐らとも親しく交流している。新朔は彼ら文人からも慕われ、その至芸、人柄を讃えた文が残っている。 【参考文献】
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