宝生流・金剛流では「草紙洗」、金春流・喜多流では「草紙洗小町」、観世流では「草子洗小町」と表記する。
四月(旧暦)の半ば、都の清涼殿で歌合※が催されることになっており、大伴黒主の相手には小野小町と定められました。黒主は歌の実力では小町に敵わないと思い、歌合を明日に控えて、小町の屋敷に忍び込み、小町が歌合のために詠んだ歌を聞き取ります。そして黒主は、小町の詠歌を万葉集の草紙(草子)に書き入れ、盗作を演出しようと企てました。
翌日の歌会では、帝をはじめ、紀貫之ら歌人が居並ぶ場で、まず小町の歌が披露されました。帝が小町の歌を讃えるなか、黒主は、小町が万葉の古歌を発表したと主張します。小町は反論しますが、黒主からは証拠として書き込みをした万葉の草紙が提示されます。汚名を着せられ、心を痛めた小町でしたが、草紙にしっかり目を通し、行の整え方や墨付きに不自然な点を見つけます。そこで小町は草子を洗わせてほしいと願い出て、帝の許しを得ます。小町が洗うと、書き入れられた歌だけが流れ落ち、黒主の悪企みが露見します。この時、黒主は自害しようと座を立ちますが、小町は歌道への熱心さゆえのことだからと許し、呼び止めます。帝もお許しになり、黒主は再び座につきました。こうして小町、黒主の遺恨もなく、めでたい雰囲気となり、小町は御代を寿ぎ、和歌の徳をたたえて舞を舞いました。
※歌合:歌人が左右に分かれて、おのおの歌を詠み、その優劣を競う王朝の貴族の遊び。
この曲は史実に基づかず、有名な歌人を一堂に集めた架空の物語として創作されています。思い切った創作だからこその面白さがあります。大伴黒主を、人を陥れようとする悪どい人物とする一方、小野小町を比類のない歌の達人として、正義の側に立たせます。宮中の雅な歌合を舞台としながら、どろどろした人間の欲を描き、架空とはいえ、真に迫った印象的な物語となっています。
物語の焦点は、黒主の悪だくみにはまった小町が、みずからの潔白を明らかにするため、草紙を洗うところ。ここで正義は勝利し、悪事が露見します。小町が草紙を洗い、書き入れた墨がすべて流れ去る場面は、まさに劇的な瞬間です。この場面に至るまで、「洗う」ことにかけながら、さまざまな和歌を想起させ、盛り上げていく謡も美しく、楽しみの一つです。
この後、黒主は自害を図ろうとしますが、小町はそれを止め、歌道への熱意ゆえのことであると許し、帝も怒りを見せず、寛大に許す場面が続きます。そのまま祝賀の雰囲気となって、小町の美しくきりりとした舞へつながる流れも、好感が持てます。悪をただ断罪するのではなく、水に流し、遺恨なく清々しい世界を導く。日本人が古い時代から培ってきた智恵を感じます。この曲で小町は、草紙を洗い、悪事を洗い流すとともに、観る者の心をも洗うかのようです。
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