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京都の町に、西陣織の素晴らしい名工の方がいて、復元から新作に至る幾多の素晴らしい能装束を魔法のように織り成しているという。伝説めいた話に魅せられた私たち編集スタッフは、その主を訪ねて東路をたどり、秋色迫る京の都へ上った。 「菊慈童/枕慈童」の主人公のような山口安次郎さん
ようやく探し当てた山口さんのご自宅兼工房は、西陣らしい、軒を連ねる家々の一軒である。少し遅れて到着した私たちを、安次郎さんのご長男、山口巌さんが玄関先まで出て、快く迎えてくださった。恐縮する私たちも、巌さんの柔らかい言葉に緊張を解かれていく。昔ながらの土間を上がり、居室に招じ入れられると、ほどなく安次郎さんが姿をお見せになった。 人よりもすらりと伸びた長い指の繊細さに、まず目を奪われる。わずかに赤みの差すその頬は張りがあって、色つやもいい。エレガントな立ち居振る舞いを拝見し、朗々たる声を拝聴するに至って、お年を伺ってはいたけれど、上に数字の「7」が抜けていたのでは、と思ったくらいだ。謡曲「菊慈童/枕慈童」の主人公 ※ のような、清々しい雰囲気を感じたのである。 インタビューには、家業の織物会社を継いで、父親の能装束づくりをサポートしてこられた巌さんにも、ご同席いただいた。巌さんは自ら能の研鑽を積み、安次郎さんの作った能装束を着て能を舞っている。一緒に歩んで来た道のりのふさわしい合いの手が入った。 「謡好き」から能装束づくりへ——ご著書※※では、55歳になってから、本格的に能装束づくりに入ったと言っておられますね。安次郎 私はね、だいたい20歳くらいから謡を稽古しまして、そこからお能が好きになって。それがもともとの始まりです。
確かに55歳くらいで商売を息子に譲りまして、京都市近郊の園部町に府の誘致工場の第1号を作りました。私は向こうに行って、近所の人を集めては、西陣織を教えましてん。一年ほどやりますと、だいたい皆覚えて私が出て行かへんでも1、2枚は織れるようになり、私のからだに余裕ができましてん。好きなことがでけるなあと思て、能装束を始めたんです。かわいがっていただいた、先々代の金剛巌先生の「能装束は300年もつ。300年残る仕事をしたらどうか」という言葉の後押しもありました。 実はその前もあるんです。終戦後、糸が手に入らず、織物の仕事を続けられなくなりました。続けるために、能装束を作ることにしたらどうかと考えて、「日本の文化を守るために、能装束を復元したい。糸を手配してもらえないか」と商工省にかけおうたんです。そしたら二つ返事で糸をやるといってもらえまして。それで拵えました。当時はものを作るときには、物価庁に届けて公定価格を決めなあかんかったんですけど、物価庁では、「こんだけええもんやったら、勝手に値をつけてかまへん」といわれました。商工省、物価庁の役人さん方は皆、私の能装束づくりを喜んでくれはりました。 ところが当時は、能の先生方は衣装を買うどころやなかったんです。それでいったんやめて、その後、帯を織って生計を立てることになります。ただ、その経験がありましたさかいに、50年前に能装束づくりを始めることができました。その頃になりますと、世の中も落ち着いてきましたさかい、経済的にも余裕ができていました。ほんまの能装束を、ほんまの草木染めで復元しようと思いましてん。 お話の合間に、以前に展覧会を開催されたときの目録や、生地の見本を実際に見せていただいた。その絢爛豪華な美しさに嘆息する。 望みの色を出すのに3年、費用も莫大に——こんな素晴らしい装束をお作りになって、最初の頃はご苦労もあったでしょう。安次郎 初期に作ったものに、若い女性の役で使う紅(いろ)入りの唐織があります。本紅(べに)を使って色を出すために、紅の本場、山形県で染めましてん。望みの濃度になるまでに3年かかりました。夏場は材料が腐るので染められまへん。冬の寒いときだけ染める。そしたらね、1領分の染め賃が500万円になりました。 ——なんと……、それは商売ではないですね。巌 今の化学染料でしたら1日で染まるんですけど、そのときは、昔の能装束に挑戦するということで、技法も何もかも昔ながらのものでやったんです。 安次郎 初期に5点拵えまして、ひとつは京都国立博物館に寄贈しました。 巌 確か「現代の名工」を受賞したときの記念でした。私は、このうちのひとつを着て「東北(とうぼく)」の能を舞いました
息子の演能のために、父が織る——巌さんは能を舞うときは必ず、お父様の織られた能装束をおつけになるのでしょうか?安次郎 この子が舞うときは私が織る、というふうにしました。まっすぐに商売も継いでくれて、私の趣味も受け継いで、私の化身になってくれましたから。能は、息子が高校に入ったとき、近所の親しい観世流の先生のところに渡りをつけて、習いにいかせたんですわ。 巌 半ば強引に行かされて、すぐにやめようかと思ったこともあったんですが、幼ななじみの仲間もやってましたんで、続けられて。いつの間にか、父の織った装束を着て、能を舞うようになりました。 安次郎 自分で考案した装束も、新作でおろして、着てもらったりもしました。能は古いけど、装束は新しいほうがよろしおすわ。古いだけのものは、やっぱりあきまへんわ。 舞う人のことを考えた能装束 安次郎さんの仕事は、古い能装束の復元だけではない。新しいデザインの創作でも腕を揮ってきた。その能装束の特長は「軽くて舞いやすい」こと。一着だけでも相当に重い能装束を、能楽師は幾重にも重ね着して、荒々しさ、勇ましさ、優雅さなど、多様な表現に挑まなければならない。軽ければ軽いほど、舞いやすく、より表現そのものに集中できる。舞う人のことを第一に考える安次郎さんの装束は、能楽師からも好評で、観世、金剛の両宗家をはじめ、名のある能楽師から注文を得てきた。 ——昔の職人の技を越える工夫とは、どういうものでしょうか?安次郎 昔の能装束を見ますと丁寧に織ってあります。丁寧に織ってありますけど、何か物足らん、と思うんです。 話は変わりますが、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、織田信長の家来になっていちばん最初の仕事は「草履とり」でした。そのとき、藤吉郎が草履を胸の懐に入れて温めた、という話がありますね。私はあの話が好きで、どんなことでも誠心誠意、尽くすことが大事だと考えました。この秀吉のサービス精神を織物にも応用でけんかな、と思っていろいろ工夫したんです。 巌 「誠心誠意」が座右の銘なんです。 安次郎 それで帯でも能装束でも、表の柄を表現する糸は十分に使うけれども、目方をできるだけ軽くするために、裏に糸がいかんようにしたんです。どうしたら、軽く織れるか。裏に出んように織ったらええんですわ。刺繍を表現したような織りで、表は盛り上がるように、しかし裏には余分な糸がいかないように。 巌 唐織を着る女性の場合、座っていることも多いわけです。ワキを向いたり、正面直したりというときでも、装束が軽いと助かる、と宗家の観世清和さんも言ってくださいます。
——現代のシテ方には大変有難い、実用的な装束といえますが、巌さんが実際に着比べた感触はいかがですか。巌 大きく違います。練習をTシャツとズボンでやって、本番で胴着着て、箔のものを上に着付けて、それから唐織を着るんですわ。その上に法被を着ることもある。さらに、たとえば船弁慶の後シテのように、狩衣を着たり。それに半切とか大口とかの袴を穿いたら、もう……(笑)。それで長刀もって振りまわしたりするんですからね。軽いものを着てやると、うんと楽ですね、やっぱり。 ——いちばん難しかった注文は、どういうものでしょう?安次郎 宝生流の三川泉先生からのものですね。三川先生と今井泰男先生のおふたりから、同時にご注文いただいたんです。三川先生は、「野宮」用の唐織をオリジナルの構図で織ってもらえませんかとおっしゃって。そこで私が自分で大まかな柄を決め、それが決まったら、図案家に丁寧に書いてもらい、織りに入ります。 そのときのご要望がね、「美しい人が失恋する。憂いのある配色をお願いしたい」というものやったんです。ただそれだけのご要望で、これは難しいな、と思いました。秋の草をあしらって、寂びた紅、茶と萌黄といったような配色でやりました。 一方、今井先生には「熊野(ゆや)」の装束を拵えたんですけど、「新しい装束で舞うと舞姿がよくなる。気持ちいい」と言うてくれはりました。 西陣の復興はリヨンのおかげ西陣織の名工、山口安次郎作の能装束は、国内で演能に供せられるばかりではなく、海を渡って諸国の人びとの眼に触れ、日本の美の世界を焼きつけてきた。北欧、フランス、英国……。主にヨーロッパで展覧会を開き、各国の博物館や美術館に能装束を寄贈している。 ——海外へも能装束を寄贈なさっていると、伺っています。安次郎 二十数年ほど前に縁があって、ストックホルムのスウェーデン国立民俗博物館[1984年(昭和59年)]と、コペンハーゲンのデンマーク国立博物館[1985年(昭和60年)]で展覧会しましてん。「能装束は日本を代表する織物や、日本人の美意識を海外に見てもらおう」と思って、装束も寄付しました。 唐織というのは、「いいもの」という意味がある。いい織物、という意味ですわ。昔は、高級品のことを何でも「唐物(からもの)」と言うてました。古来日本人は、海外からの質の高い、高価な輸入品を、珍重してきましたさかい、本当は日本で生まれた唐織も、いちばんいい織物、という意味を込めて唐織と呼んだんですわ。それほど能装束は、織物の世界でも、最高の技術が込められたものなんです。それを海外の人に見てもらいたかった。 巌 フランスでは、1999年(平成11年)11月、当地で催された“ジャパンウィーク”に参加するかたちで、織物の町、リヨンで展覧会を行いました。 安次郎 その前に、京都で展覧会をやったとき、フランス大使館の人がみえて、パリのルーブル美術館で展覧会をやらないかと言われましてん。そのとき私はこう言いました。ルーブルは世界一の美術館で結構ですが、西陣はリヨンと浅からぬ縁がある。リヨンのおかげで今日までやってこられたといってもよいのだから、そのお礼がしたい、と。 明治時代に西陣は衰微したのですが、そのときに、3名の職人をリヨンに留学させてジャガード織りを導入したんです。それまでは手機でした。ふたりがかりで作業しなければならず、1日に5000越(こし:緯糸の打ち込みのこと)できればいい、というものでした。ジャガード織りの仕組みなら、機械の助けを借りてひとりで作業できます。1日の目標は1万越まで増え、しかも人件費は半額になった。ちなみに、私は若いときに夜なべして、1万5000越を毎日織っていました。最高で4万越やりました。 ——人間わざじゃないですね(笑)。安次郎 そのくらい能率が上がって、西陣は大きく復興したんです。それはリヨンのおかげですさかいに、リヨンに恩返ししたい思うて、先にリヨンにお礼をさせてもろて、それから縁があったらパリでもやりましょうと言いましてん。それで、展覧会をして、お礼の意味を兼ねて、能装束も2領、リヨンの歴史織物博物館に寄付しました。 巌巌 2002年(平成14年)の春先には、日英友好400年を記念して英国の各地で行われた“Japan 2001”に参加しました。ロンドンのビクトリア&アルバート美術館で展覧会をやりました。 安次郎 ほんまは毎年でも海外で展覧会やりたいんですけど。 巌 個人ではなかなか難しいことですから……。 ——そういう機会をぜひ、いろんなところで企画していただけたらと、この場をお借りして申し上げたいですね。
西陣織の源泉は能装束にあり——これまで身につけてきた技を、どのように伝承していかれるのでしょう?安次郎 70歳代の頃から、私は毎年海外に旅行しまして、世界中の織物を見ましてん。そこで感じたのは、日本の織物は世界最高峰やということ。そして日本の織物の技術のすべて結集したのが、能装束です。錦(にしき)、繻子(しゅす)、綾(あや)、紗(しゃ)、絽(ろ)……。全部能装束にあります。西陣織は1000年の歴史をもってますけど、能衣装があったさかいに技術が保存された。西陣の源泉は能装束やったんです。私は、能装束を拵えておいたら、後世の西陣に生きる人たちの参考になるやろうと思っています。その思いで能装束に技術を込めてきました。 ——途絶えることはありませんよね?安次郎 日本民族がいる間は、西陣織はなくなりませんわ。滅びない限りは、この技術は大丈夫やと思ってます。 安次郎さんは、家業のなかで後継者も育成してこられた。長男の巌さん、次男の豊さんが家業を継がれ、そこには安次郎さん直伝の技を伝えるベテランの織師も働いている。そして三男の憲(あきら)さんは、滋賀県長浜市に山口能装束研究所を構え、独自に研究を重ねながら、能装束づくりに携わっている。 安次郎 技術の伝承というのはひとつではなく、いくつも分かれていくもんやと思います。直接の後継は長男、次男が担ってくれました。三男も若い頃は兄たちと一緒にやっていましたが、分かれて自分でやりだした。 巌 弟は独立心が旺盛で、自分で試行錯誤しながらやりたいという気持ちがあったんやと思います。今は1年の半分は海外にいるというくらい、世界をまたにかけて活躍しているようですね。 安次郎 まあ気張ってやっていると思います。枝葉が分かれて伸びていくように、技術も精神も伝えられていくと思います。 300年先の能装束を見てみたいインタビューの最後に、安次郎さんは、300年でも、400年でも生きているつもりだ、とおっしゃった。国内でも海外でも数多くの衣装を寄贈してきたが、世界各国、気候風土の違うところでいったいどう変わるのか、その変化が見たいのだそうだ。その研究熱心な姿勢に、思わず頭を垂れた。 読者の皆さんにこれまでの営みの思いを一言、と水を向けると「西陣のしがない職人ですけど。日本の素晴らしさをやっぱり世界的に知らせたいと思いましてね」という言葉が返ってきた。現代の名工のひとりであり、勲六等瑞宝章の受章者であるお方から、このような謙遜の言葉を賜り、私たちはさらに感激した。 最後にお願いして、握手していただいた。その手は思った以上に、繊細で柔らかく、そして温かかった。(2008年10月)
2010年2月7日、山口安次郎さんは老衰により亡くなられました。105歳でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。 |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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