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能の物語の多くは、 旅人である“ワキ”が、ある所に行きかかり、 亡霊や精霊である“シテ”と 出会うところから始まります――。 連載「ワキから見る能の世界」では、 舞台でワキ方として活躍されている安田登氏に、 旅人・“ワキ”の目線から見た、能の世界を語っていただきます。 平家滅亡の三大合戦の最初の地、一ノ谷へ
平家の落人らの霊気雰々たる高畑の集落を訪ね、龍神や平家一門の鎮座まします壇ノ浦の海底の龍宮を幻視したら、もう源平の旧跡巡りの続きをしたくてしたくてたまらなくなり、「さて、次はどこに行こうか」と『平家物語』と日本地図とを見比べて、わくわくしながら、強く心をひかれたのが津の国「一ノ谷」でした。 いまの兵庫県にある一ノ谷は、平家が滅亡に至る三大合戦の最初の地です。 一ノ谷、屋島、そして前回に訪れた壇ノ浦の合戦を経て平家は滅亡しますが、その三大合戦の中でもこの一ノ谷は、少年武将、平敦盛を始め、多くの貴公子が討たれた、特にあわれをもよおす物語が多い旧跡です。 「ああ、一ノ谷に行きたい」と思っていたら、ちょうど『芸術新潮』の能の特集号(2012年12月号)で、神戸在住の内田樹さんと対談をすることになり、「よし、そのついでに」と一ノ谷行きを決めました。 「ついで」というと、はなはだ不謹慎のようにも聞こえますが、実はこの「ついで」というのが大事で、能では、どこそこに行こうと決めて行った旅ではなく、どこかに行く途中で神霊に会うことが多いのです。そういう意味では対談のための出張のついでに一ノ谷に行くというのは、能のような旅をしたい身には最適なシチュエーション、「では、出発!」と相成りました。
能『敦盛』の「我この一ノ谷に来てみれば」を口ずさむさて、一ノ谷は「須磨」にあります。 …と聞くだけで「おお、須磨!」とわくわくする人も多いはず。 能や日本の古典が好きな方なら「須磨」と聞いては黙っていられない。須磨は源平合戦の旧跡であるだけでなく、光源氏の流された土地でもあるし、在原行平と松風・村雨姉妹の恋物語の旧跡でもあります。 多くの平家の武将の血の記憶だけでなく、さまざまな恋の思い出も記憶する、日本文学史上、いやいや日本精神史上、特別な土地なのです。 能で須磨といえば、まず思い出すのは名曲『松風』です。 が、『松風』の話をしていくと、もうそれだけで一回分でも足りないくらい。なかなか『平家物語』にたどりつかないので、それはまたということで、未練だけを残して、まずは平敦盛の旧跡を訪ねることにしましょう。 一ノ谷の合戦場に近い須磨浦公園駅は、駅から海を望むことができます。改札を出て、浜辺に向かったところに「敦盛塚」と呼ばれている石塔が立っています。 おお、のっけからこれです。駅の裏が、もう『平家物語』の旧跡。 いかにも寂びた石塔で、この蔭から敦盛の霊が現われても何ら不思議のない趣きを漂わせています。 日本で二番目という大きな石塔で、建てられたのも室町時代後期から桃山時代にかけてといわれています。 敦盛の終焉の地が、「まさにここだ」という確証はむろんないのですが、しかしこの地に立って、海を眺めていると、能『敦盛』のワキ謡が自然に口をついて出ます。
我この一ノ谷に来てみれば
その時のありさまの 今のように思われて 輪廻の妄執に帰るぞや 能『敦盛』より
我が子と同年輩の少年武将、平敦盛を心ならずも討ってしまった熊谷次郎直実(なおざね)は、法然上人のもとで出家をし、「蓮生(れんせい)法師」と名も変えた。 直実、改め蓮生法師はある日、敦盛を弔うために一ノ谷を訪れ、彼との戦いの場に立つと、そのときのありさまが、まるで今のことのようにありありと浮かび、悟ったはずの身なのに、輪廻の妄執に戻ってしまうのです。 で、さっきの「我この一ノ谷に来てみれば」の謡です。 と、どこからともなく笛の音が。彼が討った敦盛も笛の名手。 その笛の音の主を確かめようと蓮生法師がしばらく休んでいると現われた若い草刈たち。昔から「草刈の笛、樵(きこり)の歌」と言われ、笛は草刈たちの吹くもの。その草刈のひとりが蓮生に「十念を授けよ」という。 十念とは「南無阿弥陀仏」を十回唱える行法です。生きている者、ましてや草刈には似合わぬ願い。その不思議さに、蓮生が草刈に誰何すると「自分は敦盛のゆかりの者」と応え、ともに念仏を唱えるのですが、草刈はやがてさらなる回向を頼み、いづくともなく姿を消してしまうのです。 蓮生がなおも念仏を唱えていると、敦盛の亡霊が現れ、平家一門の盛衰を語り、そして、ここ一ノ谷での戦と、自分が熊谷直実(蓮生)に討たれたときのさまを再現し、目の前にいる蓮生を見つけ「因果は廻りあいたり。敵はこれぞ」と蓮生を討とうとするのですが、「仇をば恩に変え、念仏をして弔らってくれている蓮生は、もう敵ではない」と、さらに我が跡を弔ってほしいと頼んで消えるのです。
“疾走する水上バイク”に想う「敦盛の死」海を眺めていると、こんな能『敦盛』のお話を思い出し、ワキの謡を口ずさんでしまうのです。 むろん私は蓮生法師ではないので、須磨を訪れても敦盛の亡霊に会うことはなかった。が、この須磨の浦に立ち、敦盛終焉の海を眺めているときに、ちょうど水上バイクが沖に向かって疾駆して行きました。 オートバイは「鉄馬」と呼ばれ、馬にたとえられます。 「水上を沖に疾駆する水上バイクに跨る青年は、まるで敦盛のようだな」などと考えていると、それまで『平家物語』を読んでも、能『敦盛』のワキを勤めていてもあまり不思議に思わなかったことが、急に不思議に思われました。 『平家物語』によれば、敦盛は馬に乗ったまま沖に漂う味方の船を目指し、五、六段(6、70メートル)ほども行ったところで、熊谷に呼び戻され、浜辺での戦いで討たれたのです。 それがちょうどいま、水上バイクのいるあたりなのです。 岸からはかなりの距離です。 そんな敦盛を「まさのうも敵(かたき)に後ろを見せ給うものかな。返させ給え、返させ給え」と扇をあげて招く直実。 この呼びかけに敦盛が戻らなかったらどうだったか。 陸で叫ぶ熊谷直実の声を背に聞きながら、それでも敦盛がさらに馬を泳がせていたら、100メートル、150メートルと沖に行き、味方の船に乗ることができたのではないか。疾駆する水上バイクを見ながらそう思ったのです。 海のない山家である熊谷(埼玉県)で、生まれ育った武将である直実は、馬を泳がせて敦盛を追うことができなかった。そんな訓練はしていなかった。多分ね。 それに対して海の民である平家の一門である敦盛は、馬を泳がせる技術を持っていた。 逃げようと思えば敦盛は、充分に逃げ切ることができたのではないか。 しかし敦盛は戻ってきた。そして熊谷に「とうとう首を取れ」という。 ひょっとしたら敦盛の死は自死にも近いものではなかったか、と須磨の浦で思ったのです。 そして、馬を泳がすことのできる平家と、馬で山を越えることのできる源氏。馬という非・人間である他者を媒介に、この両者の対比がはっきりと現われたのがこの一ノ谷の戦いではなかったか。そうも思いました。 ならば義経が馬で駆け下りたという鵯越(ひよどりごえ)の道を見てみたいと、後ろの山に登ることにしたのです。〈続〉 安田登 プロフィール |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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