世阿弥は「幽玄」と「花」というふたつのキーワードをつかって、能のブランド・イメージを形作りました。
世阿弥は、能をほかの芸能とは全く異なる世界として価値付けました。いわゆる「ブランド化」したのです。そのブランド・イメージが「幽玄」です。
もともと、世阿弥が属する大和申楽は、物まねの芸能であり、ライバル関係にあった近江申楽は、雅な天女舞を中心とした幽玄美が売り物でした。その幽玄美を取り入れたのが、世阿弥の能でした。
では、幽玄とは何でしょう。
世阿弥は、『花鏡』の中で、「ことさら当芸において、幽玄の風体第一とせり。」(能では、幽玄の姿であることが、第一に大事なことである)と述べた後、幽玄の最も良い例として、12〜13歳の少年が能面をつけないで舞台にいる姿を挙げています。幽玄とは、「美しく柔和な姿」という意味です。音曲の美しさ、姿が美しく静に舞う姿などが「幽玄」です。たとえ鬼の演目でも、写実に走らず、美しく舞うことが求められたのです。
能の美は、
「花」は、世阿弥の能を語る時に避けられない概念です。それでは、「花」とは何でしょう?
外界の必然にも、自分自身の自然にも、徹底的に従うことにより、其の時々の新しい姿を創り出していくこと、それが「花」です。世阿弥は、7〜8歳の子どもにある自然な美しさを花の原型としました。その花のつぼみが徐々にほころび始め、花が咲き誇り、最後には散る。老齢期に入り、それでもなお美しいものが残るなら、それが「まことの花」だというのです。
若さが創り出す「花」は、一時的なもの(=時分の花)ですが、歳月を経ても、なお失せないものが、「まことの花」だと世阿弥は説きました。この「まことの花」を身につけることこそ、世阿弥の芸が目指したものだったのです。
世阿弥は、その芸論で、折に触れ「花」について語っています。