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ESSAY 安田登の 能を旅する

能の物語の多くは、 旅人である“ワキ”が、ある所に行きかかり、
亡霊や精霊である“シテ”と 出会うところから始まります――。
連載「ワキから見る能の世界」では、
舞台でワキ方として活躍されている安田登氏に、
旅人・“ワキ”の目線から見た、能の世界を語っていただきます。
連載 第1回ワキから始まる能の物語

藤原定家と式子内親王の恋物語

藤原定家と式子内親王の恋物語
© andreiuc88

ひとつの能の物語から始めましょう。
季節は旧暦の十月ですから今ならば冬。

北国から京に上ってきた旅の僧が、紅葉の色を残す冬枯れの梢に眺め入っていると、山あいから突然降りくる時雨。僧は、かたわらの軒端に雨宿りをします。するとそこにどこからともなくひとりの里女が現れて、僧にいうのです。

「あなたの雨宿りするそこは『時雨の亭(ちん)』という由緒あるところ、それを知って雨宿りをしているのか」と。

確かに見れば『時雨の亭』と書かれた額が打ってある。誰の建てた所かという僧の問いに、ここは藤原定家の建てられたところで、逆縁とはいえ、定家卿のご菩堤をお弔いあれと、勧めるためにこれまで現れ来たのだと、その女性は告げます。

藤原定家は平安時代末期の歌人。百人一首を編んだのも彼だという説もあるほどの人。そんな人の建てたところに僧は雨宿りをしていたのです。

雨も上がり、女性に連れられてお墓に来てみれば、長い時の経過を感じさせる石塔には蔦葛が纏(まと)わりついて、その形もさだかには見えない。「これは誰の墓か」と僧が尋ねると、「これは式子(しょくし)内親王の墓です」と彼の女は答え、さらにそこに絡まりついている蔦葛を「定家葛(ていかかずら)」であると教えるのです。

「定家葛」の名に惹かれた僧が、その由来を問うと、女は、遥か平安京の昔の恋物語を語り始めます。

昔、藤原定家と式子内親王とは恋に落ちた。しかし、式子内親王は斎宮(さいぐう)として神に身を捧げた皇女。生身の男と恋をしてはいけない。ふたりの恋は誰にも知られてはいけない忍ぶ恋でした。

彼女は「玉の緒よ 絶えなば絶えね 長らへば 忍ぶることの 弱りもぞする」という歌を詠みます。玉の緒とは、魂と体とをつなぐ命の緒。「命の緒よ、絶えるなら絶えてしまえ」。 私は死んでしまいたい。命が長らえれば、この忍ぶ思いが弱まって、ふと誰かに漏らしそうになってしまうから。

が、彼女は死ぬことができず、ふたりの仲は人に知られるようになります。そうなれば人は黙っていない。ふたりは別れさせられる。どんなに嘆いても、また恋い慕っても、もう逢うことはできない。

「え、里女じゃないの」

そのうち、ふたりは亡くなります。

が、死後もなお式子に対する定家の思いは消えず、彼は植物の霊、すなわち「定家葛」になるのです。ツタ葛となった定家の妄執は地を這い、式子の墓に辿り着くや、その墓石に這い纏わる。

式子は、もとは神に身を捧げた女性。おそらくは、もうあんな苦しい思いなどはしたくないと願っていたでしょう。

しかし、能の中には「荊(おどろ)の髪もむすぼおれ」という詞が出てきます。この詞から想像を逞しくすれば、彼女の心は成仏をしたい。が、身体は違う。地底に眠る彼女の髪が伸びていき、上より覆う定家葛に絡まり、いつまでも離れることができない。

「妄執を助け給へや」、こんな私の妄執を助けてください。

と、さきほどの女性がいうのです。

え、里女じゃないの。怪しんだ僧が、里女に「本当は誰なのか」と尋ねると、「私こそ式子内親王の霊。この苦しみを助け給え」と言いつつ、墓の付近で姿を消してしまいます。

気がつけば辺りも暗くなっている。僧が『法華経』の薬草喩品を読経していると墓に絡まっている定家葛が解けて、中から式子内親王の霊が昔の姿で現われ、僧に報恩(感謝)の舞を舞います。

が、舞が終わると定家葛がもとの如くに這い纏わって、彼女はまた墓の底、深い闇の中に引き戻されるのです。


「定家」に見る「夢幻能」の構造のおさらい

能には「現在能」、「夢幻能」という分類がありますが、いま紹介したのは後者、「夢幻能」のひとつで『定家』という能です。夢幻能の多くは、このような構造になっていますので、いまの物語を元に、夢幻能の構造を確認しておきましょう。

  1. 旅人(多くは僧)が旅の途中で何か(自然物が多い)に出会う    
    ※『定家』では紅葉が残る梢。     
    また、ここに突然の自然現象の変化が起こることも多い。
  2. と、そこに里人(女性か老人が多い)が現われ、ふたりは会話をする。
  3. 里人の話はだんだん昔話になっていく。    
    ※『定家』では藤原定家と式子内親王の恋物語。
  4. 昔話の主語は曖昧となり、いつの間にか里人の物語のようになる。
  5. 不審に思った旅人が、あなたは誰かと尋ねると「実は私こそ、その物語の主」と里人が言い、いずくともなく消えうせる。    
    ※ここで里人は一度幕の中に入ることが多い(「中入り」という)。
  6. 旅人がお経を読んだり、半睡半覚状態の睡眠に入ったりして「待つ」。
  7. 里人が本来の姿で再び現われ、物語をしたり、舞を舞ったりする。
  8. やがて夜が明けると物語の主の姿は消え、里人の夢も覚める。

能の物語はワキの旅から始まる

能の物語はワキの旅から始まる
© Doc Holiday

ここに登場する「里人(実は昔語りの主)」と「旅人」、現代の演劇ならば同じ劇団の人が演じても不思議でも何でもありません。むしろ、それが普通です。しかし、能ではこのふたつの役はまったく別の役割の人が演じ、里人を演じる人が旅人の役をすることもないし、旅人が里人を演じることがないのです。基本的には一生ない。びっくりでしょ。

里人を演じるのは「シテ方(かた)」という役割に属する人たち。私たちが「能」というとイメージする、能面をかけて、美しい装束を身にまとう、あの姿は、このシテ方の人たちの姿です。

それに対して旅人の役割をするのは「ワキ方」という役割に属する人たち……なのですが、「ワキ方」という言葉を「はじめて知った」という方も少なくないと思います。

能にワキとかワキ方とかいう存在があるということは、よほど能を見慣れた人か、あるいは能の解説書などで勉強した人でないと、実は知りもしない……ということをつい最近知りました。これはショック。だって私はワキ方に属しているのですから。

ひどい本になると、シテ=主人公、ワキ=脇役なんて書いて、ワキについての説明をほとんどしていないのもありますが、じゃあ、シテは何、ワキは何ということについては次回にお話することにして、今回は「ワキというものがいる!」ということを覚えてください。

さて、さきほどの物語の構造を見てもわかる通り、能はワキである「旅人」の旅から始まることが多い。能の物語はワキの旅から始まるといってもいいのです。

ワキである旅人は名所旧跡をめぐる。私たちも文学散歩や観光旅行で名所旧跡に行くことはよくあります。しかし、ワキのようにその地で式子内親王の霊に逢うなんてことはない。

なぜ、ワキは幽霊に逢うことができるのでしょうか。そして、それはどんな意味があるのか。それを次回に考えてみたいと思います。

(2011年10月)


安田登 プロフィール
1956年生まれ。能楽師、ワキ方、下掛宝生流。公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)。著作に『異界を旅する能』 『身体能力を高める「和の所作」』 『身体感覚で「論語」を読みなおす。』 『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』 など多数ある。

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