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700年近い能楽の歴史の中で数多くの曲が作られてきましたが、明治期以降に作られた演目はすべて「新作能」と呼ばれます。瀬戸内寂聴さんが国立能楽堂の委嘱を受けて書き、2000年(平成12年)に初演された「夢浮橋」もそのひとつです。源氏物語に題材をとったこの作品は、なかなか再演にかかることが少ない新作能にあっては異例で、これまでに十数回上演されています。(参考:「能楽トリビア:新作能はいつまで新作?」はこちら)
阿闍梨は恵心僧都の墓に参ると自分の罪を許してほしいと懺悔します。実は阿闍梨は浮舟の美しい黒髪に魅せられて煩悩に囚われ、妄執に苛まれて寺を出奔し、各地を転々して苦しい生活を送っていたのでした。 やがて小舟に乗った浮舟と匂宮の幻の姿を見せて、激しい逢瀬の様を現します。ところが薫という別の男にも想いを寄せる浮舟は、ふたりの男との恋に悩み苦しみ、その果てに宇治川に身を投げます。そこを恵心僧都に救われるのですが、浮舟は出家を決意し、僧都に願い出ます。そのときに師の命により髪を切ったのが当の阿闍梨でした。阿闍梨は生きたもののように波うちぬめる黒髪に、淫らな気持ちをそそられて煩悩の炎を燃やし、つい黒髪を一房、懐に入れてしまいます。その後阿闍梨は、妄執のままに破戒僧となり、地獄の苦しみを味わいます。阿闍梨はその無慚な様子を現しますが、その後に髪を師の墓に納め、念仏を唱えて悟りを得るのでした。
短編小説「髪」が新作能になったこの能を書く前に、私は髪という小説を書いています。源氏物語の宇治十帖に出てくる浮舟の話を下敷きにして、私の想像で浮舟を助けた横川(よかわ)の僧都に弟子があったということにして書いたものです。梅若六郎(現・梅若玄祥)さんも「髪」を読まれていた。私が「髪」でいいですか、と申し上げたら「どうぞ、どうぞ」とおっしゃって決まったんです。 梅若さんは女のシテでよく拝見しますが、この能では阿闍梨になってもらいました。後でやっぱり美しい女の人がいいと、浮舟の役をおやりになったこともありましたけど(笑)。阿闍梨の方がいいですね。彼が煩悩に悶えるところを、六郎さんは特別に走って柱に抱きつく演出を作られた。ビックリしましたけどね。 出家した紫式部だからこそ書けた部分源氏物語では、浮舟の出家の場面はわりあい具体的に書いてあるんですよ。師匠がどうした、髪をどうやって切ったかとかね。物語の中では、それまでもたくさんの女が出家していますが、出家したとか泣いたとか、簡単にしか書いていない。剃髪の場面はどこにも出ていないんです。ところが宇治十帖の浮舟の出家の場面は、それが非常に詳しく書いてある。私は、宇治十帖は紫式部が出家してから書いたと思います。自分が剃髪したときのことを書きたくってしょうがなかったのでしょう。
なぜそう思うのか。私は天台宗で出家しました。この時代(平安朝)の仏教はほとんどが天台宗です。だから源氏物語に出てくるお山といったら比叡山、お坊さんといったら延暦寺の僧なんです。出家の場面では、千年前の作法も今も同じ。だから私が剃髪したときの作法は浮舟のときと全く同じです。それは私でなければわからないですよね。出家してここを読んだときびっくりしました、お坊さんの言う言葉、それを受ける言葉が、皆同じなんですよ。私の場合はバリカンでバリバリ刈りましたけど、あの頃は肩のあたりまで削ぎ切っていたんでしょう。若い女の髪は豊かですからうまく切れなかったんですね、ぎざぎざになって。後で丁寧にそろえてもらってください、とお坊さんが言うんです、一言ね。それがすごくリアリティがある。髪はまっすぐになんて切れないんです。私は昔ヒステリー起こすたびに自分の髪を切っていたから、覚えがあるんですけどね(笑)。ぎちぎちっていって、そんなにすぱっと切れないですよ、髪は生きていますから。そういうことがさりげなく出ている。だからやっぱり紫式部は剃髪を経験したんでしょうね。 だから、出家の作法を描き、声明(しょうみょう)を入れた
浮舟は、横川の僧都が尋ねてきたとき、一緒に暮らす尼さんたちが出かけていて誰もいなくて、突然出家させてくださいと言うんです。そのとき無理やり出家することになるんですよ。だから道具がそろっていない。出家するとき私は真っ白な袈裟を作ったり、いろんな小物も用意したりしていました。それが浮舟の場合はない。いきなりやってもらったから。それで横川の僧都が、「私が衣を貸してあげる」とか「数珠を貸してあげる」とかいろいろ貸し与えるんです。そして髪は横川の僧都が直接切るんじゃない。私の場合も、戒師は剃刀を髪にちょっとあて、それ以降は別室へ移動して本当に剃るんですね。 その間、毀形唄(きぎょうばい)という声明が壁ごしにずっと聞こえてくるんです。説明を何にもしてくださらないから、知らなかったんですけど(笑)。どういうわけか男の声が壁越しに節を持って聞こえてくる。その間に髪がだんだん落ちていくでしょう。すると心が非常に落ち着いたんです。それが、毀形唄という髪を落とすときにしか使わない声明だった。私のときは、比叡山で一番声明のうまい誉田さんという方があげてくださった。あとで聞いたら、私の髪が長いから、40分かかったんですね。だから普通は毀形唄1回で落ちるのに、1回終わってまだ出てこないから、また2回やって計3回やった、長かったよって笑って言ってらっしゃいました(笑)。
源氏物語では横川の僧都にお前が浮舟の髪を下ろしなさいと命じられたお坊さんがいるんですよ、ひとり。その人は、浮舟が死のうと思って死に切れなくて、川水に濡れて向こう岸の屋敷の木の根に倒れているのを見つけたお坊さんなんですよ。そのお坊さんともうひとりのお坊さんとふたりで家の中に運んでいる。そのとき動けない彼女を抱いていったに違いないでしょ。そこは書いていないけど私は想像したんですね。気を失った女の子を抱いて運んだ彼は、若い頃からもう山に籠っているから、女の体なんか触れたこともないでしょう。だからショックだったと思うんですね。その黒髪の感触をもう知っているんですよ。そして改めてその女の髪を切る。それはもう胸がどきどき、どきどきして、そして煩悩が出てきて……という解釈をしたんですよ。で、その髪を切った後、ちょっともらってポケットにいれといたと(笑)。それを六郎さんは全部わかって演じてくださった。とっても色っぽいんですよ。 エロティシズムを表現する能の演出方法
六郎さんは私が書いたエロティシズムをきちんと舞台に活かしてくださいました。私はそこまで考えていないのに。最初の上演前の最後の記者会見で、あっと驚かせることをします、とおっしゃったんです。それはもう、皆さんがびっくりするような場面がありますよと言う。私はどうするのかな、ふたりにキスさせるのかな(笑)と思っていたんです。そうしたら、カチンカチンと面があたってこわい(笑)。どうするのかな、とわくわくしていたんです。そしたら、「裸」にしたんですね。 着ている打掛を脱がせるんですよ。下は白い着物に緋の袴。そのかたちは、お能では「裸」を示すそうです。それを知らなかったんですが、あれは裸になったという意味ですよ、と教えてくれました。そう思って見たら、すごく色っぽい。裸で踊りまくっているんですからね(笑)。それが六郎さんの考えた一番エロティックなびっくりさせる場面でした。そういわれると、だんだんエロティックになって、本人も脱がせるほうも手つきがそれらしくなって……。それを自分の持つ感性と理解力で想像していけばいい。想像を働きかけるのが能ですから。だんだん、また自分も色事を重ねてそのあとで見れば、もっとエロティックに見えてくる(笑)。でもお能だからあくまでも上品で典雅なエロティシズムです。(瀬戸内寂聴さん・談) |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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