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梅若実(1828〜1909年)能楽再興の基礎を築いた功労者
宝生九郎知栄、桜間伴馬とともに「明治三名人」として名を馳せた観世流の名手である。文政十一年(1828年)に生まれ、三名人のなかでは最も年長であった。若い頃から困苦の道を歩んだ梅若実は、培った胆力を持って、幕末から明治維新に至る動乱の時代を乗り越えていった。明治維新によって能楽師が生活の道を閉ざされ、能そのものが存亡の危機に直面した頃にも演能を続け、能楽再興の基礎を築いた功労者である。また非公開であった能を一般に有料公開し、能楽師の生活安定の道を開いたことも偉業の一つとして忘れてはならないであろう。 丹波の矢田猿楽を源流とする梅若家は、江戸時代に観世流のツレ家として勢力を持ち、祝言能のシテや観世太夫の翁で千歳を勤められる名家であった。梅若実は、江戸・上野の寛永寺御用達であった鯨井家から、梅若家に養子として入った。奢侈を好み、借財にも苦しんだ養父のもとでは充分な稽古もできなかったと見え、大変な苦労をして自らの力で芸を磨いていったようである。実子の梅若六郎(後に実を襲名・故人)の言によると、若い頃は声が出ず、蓋をした風呂桶の中で謡っているなどと陰口をたたかれたが、そこから発奮して稽古を積み重ねたそうである。 幕末から明治に至る混乱期には、苦しい生活を経ながらも、慶応元年(1865年)にようやく蔵前の自宅に小さな舞台を構える。しかし揚げ幕すらもなく、五布風呂敷で代用した時代もあったという。明治維新の際には四十一歳。「能などけしからん」といった風潮のなか、休むことなく芸を磨き、細々ながらも自宅の小舞台で能を演じ続けた。そして明治四年(1871年)に「翁」演能に至り、徐々に後援者を得て、名家の舞台を移設するなど能を舞う環境も整えられ、その至芸は識者にも認められるようになっていく。 明治九年(1876年)、明治天皇の天覧を賜った岩倉具視邸での行幸啓能に、十六世宝生九郎知栄の出演を後押しし、能楽界で再び華々しく活躍するきっかけをつくった。宝生九郎知栄と梅若実は、苦難の時代、ともに舞台に立ち、時には相互に謡と舞いを付け合い、連吟をも能くするなど、流儀を越えて深い親交を結んでいた。 宝生九郎知栄は当時を振り返り、「能をやる者は一人もなく、謡の声でもしたら、外から石でも投げ込まれる時代に、あらゆる辛酸をなめて能を継続した梅若実は偉大であった」という旨の談話で梅若実を讃えている。その後も数々の天覧能を舞い、不動の名声を築いた梅若実の後半生は、真に実りのあるものであったと言えるだろう。 また米国の哲学者で明治期に渡日し、日本美術の海外への紹介者となったアーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853〜1908年)は、能に魅せられ、梅若実に師事し、その薫陶を受けた。これは後に能が海外へ非常なインパクトを伴って伝えられていく、大きなきっかけとなった。 梅若実は明治三十八年(1905年)に「石橋」を舞ったのを最後に演能から引退し、明治四十二年(1909年)に八十余歳の生涯を閉じた。 【参考文献】
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