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能の物語の多くは、 旅人である“ワキ”が、ある所に行きかかり、 亡霊や精霊である“シテ”と 出会うところから始まります――。 連載「ワキから見る能の世界」では、 舞台でワキ方として活躍されている安田登氏に、 旅人・“ワキ”の目線から見た、能の世界を語っていただきます。 壇ノ浦にある特別な落人集落
前回から源平合戦最後の戦場である壇ノ浦(山口県)を旅しています。 平家の落人集落といわれるところは全国各地にありますが、この壇ノ浦にもむろんあります。 そしてここを訪れると、ここが特別な落人集落であることを感じるのです。 壇ノ浦の落人集落は、「高畑」というところにあります。 最後の合戦があった早鞆の瀬戸から直線距離で約2キロしか離れていない。これはちょっと変だ。近すぎる。 落人です。見つかったらおしまいです。終戦処理やら何やらで合戦が終わっても源氏の武将たちはそこら辺をうろうろしている。だから、できるだけ遠くに逃げるはず。なのにこんなに近い。 「必死に逃げて、ここ高畑まで来た」という人もいますが、歩いてたった30分。必死で逃げたにしては近すぎる。「あまりに近すぎたために気づかれなかった」とも伝えられてはいますが、しかしそれにしても近すぎます。 それはなぜなのか、さまざまに想像が膨らみますが、そのことを書いていくと、すぐにまた紙幅が尽きてしまいますので、その問題には深入りしないことにして、が、その問題に深入りしなくても、ここは格別な落人集落なのです。 「高畑」の集落を目指していくと、道端に「平家塚」の標識があり、細い間道が見えます。その道を登るとすぐに「平家塚」がある。その先は竹藪が覆っていて、なんとなく不気味です。 聞けば、昔は「ここより先に行くと祟りがある」といわれてたそうなのですが、いまは婦人会の方たちが清めてくださっていて大丈夫だということなので藪の中に分け入って行くことにしました。 藪といっても、掻き分けていくほどの藪ではありません。むしろ、ここより先には入るなという禁忌を象徴しているような小さな藪です。だから暗くもないし、鬱蒼としているわけでもない。 それでもこの藪に一歩足を踏み入れると、なんとなくぞくっとします。入ってはいけないところに入ってしまったように後ろめたさも感じます。 背筋と首筋に感じる凄愴感を味わいながら、それでも藪を進んでいくと、やがて藪は開けて、ぽつんと小さな祠を見ることができます。小さな祠なのですが、目を閉じて手を合わせていると、外界からも、そして現代という時間からも隔離された空気があたりを占め、これが霊域であることを実感します。 しんと静まり返った霊域では、すぐ下の道路を走る車の音すらも、遠くの異界から聞こえてくるように感じるのです。 この落人集落は、壇ノ浦の戦いに敗れた武将や女官たちが、ここまで逃れて来たという伝説がある土地です。そして、彼らは平家の再興を期してここに隠れ住んだと土地の人たちは伝えています。 が、この平家塚と祠に立ったときの感覚や、さらにここが壇ノ浦の合戦場である早鞆から至近距離にあることなどを考え合わせると、ひょっとしたらここは平家の残党が虐殺された場所ではないか、いや虐殺というのが言いすぎだったとしても、多くの人が亡くなった地ではないか、そんな風に感じてしまうのです。 繰り返し、繰り返し語られることの重要性『平家物語』は盲目の琵琶法師たちによって語られたと伝えられています。 それはむろん事実です。しかし、あんな膨大な物語を作り、そして語り続けるには人力を超えた力が必要であったに違いない。その人力を超えた力とは、源平合戦の後に樹立された鎌倉幕府、さらには後代の徳川幕府にまで続く数百年という長きに渡る武家政権を確立せしめるために犠牲になった、多くの死者の残恨の思いではなかったか。 むろん、それは平家の武将たちが主ではありながら、それのみならず木曾義仲や源義経という源氏のために働きながらも悲惨な死を遂げた人たちの思いもあったでしょうし、安徳天皇、崇徳院を始めとする王家の人々、さらには男たちに翻弄されたさまざまな女性の思いもあったでしょう。 『平家物語』は、そんな死者たちの思いによって語らされた物語ではなかったか、そう感じるのです。 能の中には、そんな『平家物語』に取材した作品が数多くあります。 能は、死者がこの世に残した残恨の思いを発露させ、そしてその思いが仏縁となるべく昇華するのを見守るという芸能です。それによって死者の魂を慰め鎮める、鎮魂の芸能なのです。 『平家物語』を語る平曲にも、その役割はむろんあります。が、さらなる鎮魂を求めるためには、能のような祭祀的舞台形式が必要だったのではないか、そんなことを感じさせる物語が『平家物語』の中にあります。 それを紹介しましょう。 それは前回に紹介した『大原(小原)御幸』のときの建礼門院のお話の中に出てきます。 壇ノ浦に一度は身を投げた建礼門院は、源氏の武士たちに引き上げられ、都へと護送されます。その途上、播磨国の明石の浦に着いたときに、彼女は少しまどろみ、そして夢を見ます。 彼女の知っている昔の内裏、それよりも遥かにまさるような素晴らしい御殿に、先帝・安徳天皇をはじめ、平家の一門の公卿や殿上人が皆、立派な装いで居並んでいる。 驚いた建礼門院は「都を出でて後、このような所は見たことがございません。ここはどこですか」と尋ねます。 すると、二位の尼と思しき人がただひとこと「龍宮城」と答えるのです。 彼女は「ああ、すばらしい所。ここに『苦』はございませんか」と再び問うと、二位の尼と思しき人はそれには直接答えず、「『竜畜経』に見えて候。よくよく後世を弔い給え」とだけ答え、夢が覚めた。 そのような夢を建礼門院は見たのです。
能に親しんでいる人ならば、この話を読めば、すぐに「これは能だ」と思うでしょう。 死者が夢に現れることといい、生者の問いには直接には答えず、ただ「後世を弔い給え」ということといい、まさに能そのもの。能が生まれるきっかけが『平家物語』の中にすでにあるのです。 死者の魂を慰めるためには、まず繰り返し、繰り返し語られることが必要です。 これは現代でも「お通夜」にその機能が残っています。お通夜にはふたつのルールがあります。ひとつは一晩中行うこと、そしてもうひとつは死者の思い出をできるだけ大きな声で、そしてたくさん語ることです。お通夜にお酒が出されるのも、死者のことを思い出し、そして大きな声を出すために必要なことなのでしょう。 が、それだけでは足りない。深い思いを残して亡くなった死者の魂を慰めるためには、ただ語るだけでは足りない、そう感じた当時の人々はその思い出を舞にした。いや、思い出を語っているうちに、思わず手足が動いて舞になり、そして能になったといった方がいいでしょう。 中国最古の詩集である『詩経』の序文には次のようにあります。 「情が心中に動き、それが言葉として現れたときに「詩」となるが、言葉に現しただけでは足らず、「ああ」と磋嘆(さたん)する。が、それでも足らず、声を引いて歌い、歌っても足らず、覚えず手の舞い、足の踏む(情動於中而形於言、言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也)」 思いが強ければ、言葉は自然に歌になり、歌は舞になるのです。そしてさらに二位の尼が建礼門院に依頼するように、経を読み、後世を弔うことで鎮魂は全うされます。 思い出を語る言葉がいつの間にか歌になり、歌はいつしか舞になり、そして経を読み、後世を弔う、これはまさしく能そのものです。 能も、そして『平家物語』を語る平曲も、ともに幕府の式楽とされたのは、武家の世を創り上げた平氏や義経らへの鎮魂のためだったのではないでしょうか。 建礼門院の夢の不思議さて、さきほどの建礼門院の夢ですが、この夢には不思議なことがいくつもあります。 そのうちふたつだけを紹介すると、まずは夢の中で安徳天皇や二位の尼のいるところが「龍宮城」であるということ。 今でこそ龍宮城といえば浦島太郎の影響で、乙姫様がいて、鯛やヒラメの舞い踊りがあるようなシャングリラ的なイメージがありますが、本来は龍のいる宮殿。そんな気楽なところではないはず。 能『海人』の詞章には「八龍並み居たり、その外、悪魚、鰐の口」とあり、龍だけでなく恐ろしい魚や鰐(サメや海蛇)もいて、「逃れ難しや我が命」と自分の命を危うく感じるようなところなのです。 そんな龍宮に安徳天皇や平家の一門が立派な装いで並み居る。これがまず第一の不思議。 そして、もうひとつは二位の尼が建礼門院に「読め」といった『龍畜経』という経典。これは大蔵経のどこを探しても見つけることができないお経です。『法華経』の「提婆達多品」のことともいわれますが、ひょっとしたらもともと存在しない経典なのかも知れない。 そんな存在しない経典を「読め」といわれても、読めるはずがない。が、それを読まなければ後世の弔いにはならない。 この不思議さを解く鍵が『平家物語』の異本と呼ばれる『源平盛衰記』にあります。最後にこの物語を紹介して今回の旅を閉じるとしましょう。
失われた宝剣の行方と「龍一族」壇ノ浦の戦いの後、三種の神器のひとつ、失われた宝剣を探すために、源義経は海女たちを海底に潜らせました。そのときに「老松」という海女が不思議な体験をします。 彼女は宝剣を探すうちに龍宮城に至ります。 そこは「金銀の砂を敷き、玉の刻階(きざはし)を渡し、二階楼門を構え、種々の殿を並べたり」という立派な宮殿。 しばらく門にたたずんだあと、「私は大日本国の帝王の御使です」と述べたところ、紅の袴をつけた女官がふたり出てきて「何事ぞ」という。海女、老松が「宝剣の行方をご存知ですか」と尋ねると、この女房は内に入り、また出てきたと思うと「しばらくお待ちを」といってまた内へ入って行った。 かなりの時間、待たされる。やがて大地は震動し、氷雨が降り、大風も吹いたと思うと、忽然として天が晴れた。 そしてまたしばらくすると、先の女官が来て「これへ」という。 老松が宮廷に進むと、御簾が半ば引き上げられている。 宮廷の庭から御簾を見上げれば、その長さは知らず、臥す長さ二丈もあると思われるような大蛇が宝剣を口にくわえ、そして七、八歳の児童を抱きかかえていた。眼は日月の如く光り、口は朱をさせるが如くに紅く、舌は紅の袴を打ち振るかのようであった。 その大蛇が「日本の御使よ、帝に申すべし、宝剣は日本の帝の宝ではない。これは竜宮城の重宝である」という。そして、その剣が日本国に奪われ、三種の神器のひとつとなったいきさつを語る。 「むかし、我が次男の王子がこの海中から出て行き、出雲の国、簸(ひ)の川上に尾と頭がともに八つある大蛇となって毎年、人間を呑んでいた。が、ある日、素盞烏尊(スサノオノミコト)によって退治されてしまった。そのときスサノオはこの剣を奪い取り、天照太神(アマテラスオオミカミ)に奉った」という。 ヤマタノオロチは龍神の次男だったのである。語りは続く。 「そののち景行天皇の御代。日本武尊(ヤマトタケル)が東夷征伐の時、天照太神からこの剣を賜わり、東国に下った。そのときは私自身が胆吹山(いぶきやま)のすそに、臥す長さ一丈の大蛇となり、この剣を取り戻そうとした。が、ヤマトタケルは心猛く、さらには勅命による征伐だったので、我を恐れる事もなく、飛び越して通って行ったので力及ばなかった」 龍神はその後もさまざまな謀をめぐらし、この宝剣を取ろうとしたがダメだった。そこで再び次男を使わす。なんとこのたびは次男である龍を「安徳天皇」として世に送り、そして源平の争乱を引き起こし、宝剣を龍宮に取り返した、と語るのです。あの源平争乱は、スサノオに取られた宝剣を取り戻すために龍神がしかけた戦いだったというのです。 そして、龍神はいう。 「いま口にくわえているこの宝剣こそ草薙の剣であり、懐に抱く児童は安徳天皇、そして清盛をはじめ平家の一門の人々はみなここにあり、見よ」と御簾を巻き上げる。 すると、そこには平清盛を上座にすえ、気高き平家の一門の上﨟が並び居ている景色が現出したのです。 と、このような物語が『源平盛衰記』に描かれています。 安徳天皇や平清盛をはじめとする平氏一門は、全員が龍一族だった。だから龍宮城にいた。そして『龍畜経』とは、龍一族である平氏のみが伝える幻の経典だったのではないか、建礼門院も平家一門としてその経典を護持していた。 そして、この壇ノ浦の海中には龍神を始め、安徳天皇や平清盛、そして平家の一門が安楽に暮らす龍宮城があるんだろうかと、壇ノ浦を望む「高畑」の集落で、小さな祠を前にそんな想像をしてみるのです。 本稿初出時に、文章の一部(「繰り返し、繰り返し語られることの重要性…」の段落)が抜け落ちていました。現在は修正済みです。安田登さまと読者の皆さまへお詫びいたします。(the能ドットコム編集部) 安田登 プロフィール |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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