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能の物語の多くは、 旅人である“ワキ”が、ある所に行きかかり、 亡霊や精霊である“シテ”と 出会うところから始まります――。 連載「ワキから見る能の世界」では、 舞台でワキ方として活躍されている安田登氏に、 旅人・“ワキ”の目線から見た、能の世界を語っていただきます。 源平合戦の旧跡、壇ノ浦前回までは芭蕉の『おくのほそ道』を追って、芭蕉と東北に関連する能の旧跡を巡りましたが、今回は本州の西の端、山口県の下関に足を伸ばしましょう。 下関には、源平合戦の旧跡、壇ノ浦があります。 最初はその帰趨が見えなかった源平の争いも、平清盛の死去を境に一挙に源氏の優勢に傾き、平氏一門は都を追われることになります。そして一の谷、屋島、壇ノ浦という最後の三大合戦で平氏は実質的に滅亡します。 壇ノ浦は、三大合戦、最後の決戦場で、多くの武将が自死した合戦場でもあります。 桜がようやくほころびはじめた頃、壇ノ浦(下関)を訪れました。 壇ノ浦の合戦では、平氏の武将をはじめ、多くの人々がその命を落としましたが、中でも哀れなのは御年8歳で海中に消えた安徳天皇でしょう。先帝と呼ばれた安徳天皇が、小さい御手を合わせて海中に消えた姿は、いまでも人々の涙を誘います。 関門海峡のもっとも狭い海域にある壇ノ浦のすぐ目の前はもう九州。対岸には能『和布刈(めかり)』で名高い「和布刈神社」もあり、まさにここは能ゆかりの土地。 狭い海峡を、いまはゆったりと大型タンカーや観光船が進み、安徳天皇の崩御をはじめ、さまざまな悲劇を生んだ、その面影は全くありません。 下関出身の方たちに案内してもらいながら、源平合戦の旧跡を一見したあと、地元のお寿司屋さんに連れて行ってもらいました。下関といえば「ふく(河豚)」ですが、実はそれだけではない。「さかなの町・下関」と歌うだけあって、ふく(ふぐ)はもちろんのこと、あんこう、うに、鯨、ケンサキイカと名前を聞くだけで涎の垂れそうな海産物が市場には並び、またその近さからか韓国焼肉やホルモン、モツ煮込みなどもおいしいのです。 ちなみにモツ煮込みといえば福岡が有名ですが「本場はこちら」と下関の方はいいます。う〜ん、モツ煮込みや焼肉にも心は惹かれますが、やはりなんといっても海が至近なのでおいしい魚が食べたい。 というわけで、その日はお寿司屋さんに。 ちょっと早い時間だったのでお店も空いていて、新鮮なお魚の握りをたらふくいただきながら、大将と談笑していると、実はこの大将がただものではなかったのです。 この大将こそ、壇ノ浦で身を沈めた先帝、安徳天皇のご遺骸を引き上げたという中島氏の末裔の方でした。
『大原(小原)御幸』は贅沢な能安徳天皇の最後を伝える能に『大原(小原)御幸』があります。 シテは建礼門院。俗名は平徳子。安徳天皇の母であり、平清盛の娘です。 壇ノ浦の合戦で安徳天皇や母、時子とともに入水をした建礼門院・徳子ですが、源氏の兵士に引き上げられて京へ護送される。その後は出家をして大原の寂光院で安徳天皇と平氏一門の菩提を弔っているのですが、その寂光院に後白河法皇(ツレ)が訪れるという能です。 法皇の役はツレですが、この役は重い役です。シテとほぼ同役だとも言われています。重厚な役者がふたりも揃うという観客からすれば贅沢な能です。 さて、法皇の訪れと時を同じくして、折りしも「花を摘みに」と山に行っていた建礼門院が戻る。彼女は後白河法皇の問うに任せて、平氏の栄華から滅亡までを、自分の生涯と、そして天から地獄までの輪廻の「六道(りくどう)」のありさまと重ねて語ります。 栄華を極めていた「天」の時代。何もかもが思い通りだった時代です。しかし、そんな時代は清盛の逝去とともに消え去り、都を追われて、西海の波での船上の暮らし。喉の渇きに水を飲もうとすれど海水なので飲めない。これはまさに「餓鬼道」の苦しみ。船中の人々の泣き叫ぶ声は「叫喚地獄」の罪人のごとく、戦いはむろん「修羅道」。そして馬の蹄の音は「畜生道」。それらを見、また聞くにつけても苦しみを覚えるのは「人道」。 生きながらにして地獄から天までの六道を体験した建礼門院なのです。 ちなみにこれは『平家物語』の別巻である灌頂巻に載る話です。能は、この灌頂巻の立体絵巻になっています。舞台上の動きも少なく、舞もない。観客はその分、心耳を澄ますことを要求され、謡の詞章と微妙な節遣いに引き込まれる静かな名曲です。 ちなみにワキは万里小路の中納言。寂光院のありさまを詠う謡が、これまた絶品です。 文章は『平家物語』をほぼそのまま謡うのですが、まずこの文章がいい。ただの風景を描いているように見えながら、高度な心象風景描写になっている。 寂光院に閑居する建礼門院の寂しさ、破滅に至るまでの複雑にからみあった人間関係、人生、一門、源平、朝廷それぞれの葛藤。天狗と渾名された後白河院の底知れない深み、そして栄華の中に潜む破滅への種子などなど。もう読めば読むほど何でも掘り出せるドラえもんポケットのような(って変な比喩ですが)名文なのです。 それに下掛宝生流特有の複雑な節づけがなされていて(すみません我田引水で)、謡い方も超絶技巧。ちょっとすごい謡なのです。
「…波の底にも都ありとは」さて、後白河法皇の「先帝(安徳天皇)のご最期はどうだったか」という問いを受けて、幼い先帝、安徳天皇の最後が、建礼門院によって語られます。が、彼女はすぐには語り出すことができない。 本当ならば、あそこで滅ぶはずではなかった。ひとまず筑紫の国(九州)に落ち延びて体制を整え直すはずだった。しかし、味方と思っていた緒方の三郎の心変わり。 「その時のありさま申すにつけて恨めしや」と思い出すたびに悔しさがこみ上げてくるのです。 が、緒方の三郎の心変わりで始まった合戦は平家に利あらず。「もはやこれまで(今はこうよ)」と悟った能登の守・教経(のりつね)は、二人の武将を脇に挟み「最期の共せよと」海中に飛び込む。また、新中納言・知盛(とももり)は碇を担いで海に飛び入る。 ふたりの武将の壮絶な最期。 その時、「二位の尼」が、幼い安徳天皇の御手を取り船端に登場します。この二位の尼は能『大原御幸』のシテである建礼門院のお母さんです。ということは安徳天皇のおばあちゃんであり、清盛の奥さんであり、そして今やっている大河ドラマでは深田恭子が扮している、あの方がお年を召した姿です。 彼女のその日の装束は「鈍(にび)色」の二つ衣。船の中でも歩きやすいように練袴のそばを高く挟んでいます。 「鈍色」とはグレーに近い色で、喪服に使われます。すでに出家をしている二位の尼の鈍色の装束は、亡くなった方たちへの弔いの衣装であり、また滅び行く平家や、そして今から自分とともに海中に消える安徳天皇への弔意(予祝ではなく「予弔」の気持ち)をも表しているようにも見えます。 彼女に連れられて船端に歩む安徳天皇は、二位の尼に「いづくに行くぞ」と尋ねます。 二位の尼は「この国と申すは逆臣が多く、このようなあさましき所です。この波の下には『極楽世界』と申して、めでたき所がございます。お連れいたしましょう」というのですが、涙を抑えることができず、泣く泣く申し上げる。そんな二位の尼の様子に、安徳天皇も「さては」と心得て、まずは東に向かって天照大神に暇を申し、次いで西に向かって念仏を唱える。 そして二位の尼は… 「今ぞ知る 御裳濯川の流れには 波の底にも都ありとは」 …を最後の御製に、安徳天皇を連れて千尋の底に入ってしまわれた。 「私も続いて海に飛び込んだのですが、源氏の武士に取り上げられて、いままではかない命を永らえております。そして、再び法皇の龍顔を拝する恥ずかしさ」 そう建礼門院は語りながら涙に袖を濡らします。 そうこうしているうちに時は経ち、そろそろ法皇一行は還幸の時刻。御輿を早め寂光院を出で給う法皇。それを建礼門院は柴の戸でしばらくは見送っていたのですが、やがて庵室に入られて能『大原御幸』は終わります。
壇ノ浦を望む安徳天皇の陵墓安徳天皇のご遺骸が引き上げられたという記述は、能にも『平家物語』にも、そして『吾妻鏡』などにも全くありません。 しかし安徳天皇らとともに沈んだ三種の神器を探すために当地の海女を総動員したという話もあります。そのときに先帝のご遺骸を探索しなかったはずがない。 私事で恐縮ですが、私は千葉県の銚子市の海鹿島(あしかじま)というところで育ちました。近くの海は波が荒く、また海中で渦を巻いているために、かつては毎年ひとりは海で亡くなっていました。家の門から海岸まで歩いて三歩という距離に実家があったために、うちの庭はそういう方たちを捜索するための本部の設置場所となり、また土座衛門(水死体)の安置所ともなりました。 子どもは本来は近づいてはいけない場所なのですが、しかしその家の者ということで、頼まれもしないのに一緒に海を探索したり、土座衛門を覗いたりしました。 その経験から考えれば、そんなに時間が経っていなければ、ご遺骸が見つからないはずがない。ましてや三種の神器のうち、二つは見つかっているわけです。かりにも天皇のご遺骸です。放っておくわけはない。 そう思っていたところだったので、下関のお寿司屋さんの大将のご先祖が、安徳天皇のご遺骸を引き上げたという話があることに納得をしました。 むろん歴史書にはその記述はありません。しかし、壇ノ浦を望む地に建つ「赤間神宮」の横には安徳天皇の陵墓があります。そしてここを宮内庁は安徳天皇の陵墓と正式に指定しているのです。 この赤間神宮では、毎年、五月二日の安徳天皇のご命日から三日間に渡って「先帝祭」が執り行われます。その時にも中島氏は大紋の素襖・烏帽子の装束での参拝を許されています。 また先帝祭には「お女郎行列」もあり、赤間神社のホームページには次のように書かれています。 「多数の女官達、赤間関在住の有志にたすけられ、山野の花を手折りては港に泊る船人に売り生計を立つる中に同じく先帝御命日に至るや年毎に閼伽を汲み、香花を手向け威儀を正して礼拝を続く。即ち上臈参拝の源なり」 しかし地元の人たちは、平家に仕えていた女官たちが平家滅亡後、ここで女郎になり、身を売りながら、平家の再興を願っていたと伝えています。 日本各地に残る平家伝説の中でも、もっとも悲惨で、しかしもっとも美しいもののひとつでしょう。 さて、安徳天皇と能に関しては、お話したいことはまだまだあるのですが、そろそろ紙幅が尽きました。続きは次回に。 安田登 プロフィール |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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