唐の玄宗皇帝は、安禄山の乱により亡くなった楊貴妃を忘れられず、配下の方士に、楊貴妃の魂魄を探し出すよう命じました。方士は仙術を駆使して蓬莱宮に至り、そこに住む者から、楊貴妃の居場所を聞き出します。方士が教えられた太真殿に行くと、宮殿から楊貴妃が現れます。
方士は楊貴妃に、玄宗皇帝の悲しみ、嘆きの深さを訴えるとともに、楊貴妃と会ったことを証明する証拠がほしいと申し出ました。楊貴妃はこれに応え、髪に挿していた釵(かんざし)を、方士に渡そうとします。ところが方士は、よくある品物では証拠にならない、玄宗と楊貴妃との間で人知れず交わされた言葉があれば、それを証にしたいと伝えます。それなら、と楊貴妃が語ったのは、比翼連理の誓い(天にいれば翼を並べて離れない鳥になろう、地上にあれば枝を連ねて離れない木となろう)でした。それは楊貴妃が七夕の夜、牽牛織女に誓って、玄宗と交わした睦言だったのです。
楊貴妃は、玄宗と離れ離れになった身の上を嘆きながらも、愛に生きた昔を懐かしみ、思い出の舞を舞いました。その後、釵を携えて方士は現世へ去り、楊貴妃はただ独り、宮のうちに座り込むのでした。
主人公は中国・唐代に絶世の美女として名をはせた、楊貴妃。物語の舞台は、蓬莱宮。中国の伝説にある仙界です。楊貴妃が死後にその地に住んでおり、楊貴妃を愛した玄宗皇帝の命を受けた方士、すなわち仙術を駆使する者が、彼女を探し求めて訪問するところから、能は始まります。亡霊・精霊と僧が現世で交錯する、よくある三番目物の夢幻能とは設定も大きく違う、異色の能です。唐の詩人、白楽天が、玄宗と楊貴妃の悲運の愛の物語を詠んだ「長恨歌」をベースにしており、能はその後半部分のストーリーを脚色しています。この曲を味わうには、楊貴妃の人物像や彼女が死んだ背景を知ることが助けになりますので、「長恨歌」の前半部分をもとにしながら、ここでその内容を紹介します。
楊貴妃(719〜756)は、蜀の楊家に生まれ、玉環と名付けられました。幼時に父母を亡くした彼女は叔父の養子となりました。その後、生来の美貌から、玄宗(685〜762:唐の第9代皇帝)の十八子、寿王の李瑁(り・ぼう)の妃になりました。ところが、その美しさに心を奪われた玄宗は、楊貴妃を自分の後宮に入れてしまいます。玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、彼女の親族も唐の要職を担うようになります。その一人が、楊貴妃の従兄弟、楊国忠(?〜756)でした。楊国忠は宰相として権勢を振るいますが、やがて、唐の軍人で楊貴妃の養子となった安禄山(705〜757)と激しく対立します。その結果、安禄山は唐に対し安史の乱を起こします。安禄山の攻勢を受け、玄宗は首都長安から逃げ、楊貴妃や楊国忠も同行しました。しかし、馬嵬(ばがい)という場所に着くと、皇帝警護の親衛隊が、乱の原因を作ったと咎めて楊国忠を殺し、楊貴妃の死も要求します。そしてついに、楊貴妃は玄宗の命により縊死させられてしまいます。長恨歌には、乱が鎮まった後、皇帝は深い悲しみのうちに、道士(方士)に楊貴妃の魂魄の行方を探させたと書かれ、そこから能の物語につながっていきます。
それにしてもなぜ、楊貴妃は仙人の世界にいたのでしょうか。楊貴妃は、女道士として、いわば出家した後に玄宗の後宮に入りました。露骨に、息子の妃を奪い取ったかたちにしないためだったと考えられます。彼女の道士名は「太真」であり、能で「太真殿」が楊貴妃の宮として示されたことの背景でもあります。
優美さ、品の良さ、寂しさ、静けさといった情感をたたえた謡、舞が、この曲の焦点である楊貴妃と玄宗の深い愛と絆、そして別離の哀惜の心情を、くっきりと描き出していきます。曲の背景を知ることで、その味わいは、より深まることでしょう。
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