都の僧が、加賀の国より北陸道を経て、善光寺参詣に向かいました。その途上、越中国氷見(富山県氷見市)の多祜(たご)の浦に差し掛かります。美しい藤に目を留めた僧は、思わず古い歌を口ずさみました。その歌の内容は、藤の花を賛美するものではありませんでした。すると、そこに一人の女が現れ、ここ多祜の浦は藤の名所なのに、なぜ藤の美しさを讃えるような古歌を詠じないのか、情趣のない方だ、と咎めます。僧が昔のことをよく知るあなたはどういう人か、と女に問いかけると、女は藤の精であることを明かし、消えていきました。
夜半、僧がまどろんでいると、藤の精が現れます。仏の教えにより、花の菩薩となったことを告げ知らせ、舞を舞います。やがて明け方となり、精霊は朝日の訪れとともに姿を消します。
草木の精霊(女体)が主人公になる、三番目物の曲です。旅僧が名所で花の精霊に出会うというシンプルな筋立てで、藤の花の作り出す美しく幻想的な情景を、古歌を引きながら描写した、詩情に満ちた作品です。
三番目物のしっとりとした舞と、詩的な言葉に彩られた情緒豊かな謡を楽しみながら、夢幻の世界に遊び、しばし現世から離れて時を忘れることができるでしょう。
またこの曲は、多祜の浦という土地と、深い結びつきがあります。現在は地形が変わり、能「藤」で描かれた多祜の浦の湖は、わずかな面影を残すのみですが、能「藤」にゆかりの藤の古木は、当地の藤波神社に今もあります。このような能の舞台となる土地を訪ねてみるのもまた、別な能の楽しみ方の一つです。藤の盛りの頃、足を運んでみてください。
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