都に、山姥の山廻りの曲舞をつくってうまく演じたことから、百ま山姥(百萬山姥または百魔山姥とも)という異名を取って、人気を博していた遊女がいました。ある時、遊女は善光寺参詣を志し、従者とともに信濃国を目指して旅に出ます。その途中で、越中・越後の国境にある境川に至り、そこから上路山を徒歩で越えようとしますが、急に日が暮れてしまいます。一同が困り果てているところに、やや年嵩の女が現れて、一夜の宿を貸そうと申し出てきました。庵に一同を案内した女は真の山姥であることを明かし、自分を題材にして遊女が名声を得た山姥の曲舞を一節謡ってほしい、日を暮れさせて庵に連れてきたのもそのためだと訴えます。遊女が恐ろしくなって謡おうとすると、女は押し止め、今宵の月の上がった夜半に謡ってくれるなら、真の姿を現して舞おうと告げて、消えてしまいます。
夜更けになって遊女らが舞曲を奏でつつ待っていると、山姥が異形の姿を現します。深山幽谷に日々を送る山姥の境涯を語り、仏法の深遠な哲理を説き、さらに真の山廻りの様子を表して舞ううちに、山姥の姿はいずこかへ消え、見えなくなりました。
深い山奥という情趣ある舞台設定、異形の主人公と華やかな遊女の対比で織り成す印象的なストーリー構成、深遠な仏教哲学を組み込んだ難解な内容など、さまざまな要素が絡み合った、緊張感に満ち満ちた傑作です。
全体的に重厚で荘重な趣がありますが、決して静かでゆったりとしているわけではありません。場面展開は結構めまぐるしく、また謡も緩急鋭く変化に富んで、大変見ごたえ、聴きごたえがありますから、うまく曲に入り込めば、息を飲む展開にぐいぐいと引き込まれます。
この曲をよくよく見ていくと、山姥とは一体何者なのだろうかという疑問がわいてきます。深い山々のどこかにいるという鬼女ですが、人々を恐怖に陥れるというよりも、どこか不思議で懐かしい。そして人間、自然、宇宙に開けた叡智の化身でもあるかのような広大な存在感があります。山姥という言葉は一般にも普及し、異様な風体の女性の形容などに使われます。しかし本物を見たという人に、ついぞ会ったことがありません。また開発や観光の手が入った現代の山々では、その住処ももはや霧消したかとも思えます。誰も知らない幽(かそ)けき異界に住む山姥の、本当の姿に出会える場は今、能舞台だけかも知れません。
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