「俊寛」は五流派で演じられますが、喜多流でのみ「鬼界島(きかいがしま)」と呼ばれます。
平家全盛の平安末期。都の名刹、法勝寺で執行(しぎょう、しゅぎょう)※を務めていた僧都(そうず)※※の俊寛(しゅんかん)は、平家打倒の陰謀を企てた罪科により、同志の藤原成経(ふじわらのなりつね)、平康頼(たいらのやすより)とともに、薩摩潟(鹿児島県南方海上)の鬼界島(きかいがしま)に流されてしまいます。それからしばらくして、都では、清盛の娘で高倉天皇の后となった中宮徳子(とくこ、とくし、のりこ)の安産祈願のため、臨時の大赦が行われます。鬼界が島の流人も一部赦されることとなり、使者がかの島へ向かいました。
成経と康頼は、日頃より信仰心あつく、島内を熊野三社に見立てて、祈りを捧げて巡っていました。ある日、島巡りから戻るふたりを出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と名付けてふたりに振舞い、都を懐かしむ宴に興じます。ちょうどそこに清盛の使いが来て、大赦の朗報をもたらします。ところが赦免状には、俊寛の名前だけがなかったのです。驚き、絶望の淵に沈む俊寛に、周りの皆は、慰めの言葉もありません。
やがて赦免されたふたりを乗せて舟は島を離れます。俊寛は、舟に乗せよとすがりつくのですが、無情にも打ち捨てられ、渚にうずくまるのでした。あたり構わず泣き喚く俊寛に、同志たちは「都へ帰れる日は来る。心しっかりと」と声をかけますが、やがてその声も遠ざかり、船影も消えてしまいます。
※執行(しぎょう、しゅぎょう):お寺のさまざまな務めを執り行う上位の僧。
※※僧都(そうづ):僧の役職のひとつで、僧正(そうじょう)の下、律師(りっし)の上にあり、僧尼を管轄する。
『平家物語』に描かれた俊寛の悲劇を舞台化した能です。流刑の地、鬼界島は今の鹿児島県の南方洋上に位置する硫黄島といわれています。第2次世界大戦の激戦地となった硫黄島とは同名の異なる島で、薩摩硫黄島とも呼ばれます。周囲約15キロ、面積12平方キロに満たない島に、噴煙に霞む活火山の硫黄岳(703メートル)があり、岩には硫黄が露出し、海面に硫黄の色がにじむところです。俊寛のいた京の都に比べると、まさに異界の地であるといえるでしょう。
この島で、俊寛は流人生活に打ち沈む日々を送っていました。ただ同志のふたりの存在が心頼りになっていたのか、都を懐かしみ、水を酒になぞらえて酌み交わすような、悲惨ななかに些少のゆとりも垣間見せます。そこへ赦免使が現れます。期待感に満たされる俊寛。しかし一瞬の希望の輝きはあえなく失せてしまいます。自分だけが赦免状に名前のないのを知り、そんなはずはないと何度も赦免状を調べますが、どこにも名前はなく、焦燥感に震えるばかり。同志と別れて孤島に残され、前にも増して絶望の淵に追い込まれる俊寛の哀れさは、たとえようもありません。
決して派手に流れない、抑制された動きと、深い波のうねりにも似た、よく調えられた謡が、その絶望を淡々と、くっきりと描き出していくのを見聴きするにつけ、能の表現の凄みを感じます。
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