巻絹とは、巻いた絹の反物のこと。とりわけ質のよいものが献上品とされました。
時の帝が、霊夢をご覧になり、熊野三社に千疋(せんびき)の巻絹を奉納せよとの勅令をお出しになります。その命を受けた勅使は、熊野で全国から奉納される巻絹を受け取りますが、都からの使者がなかなか来ずに、業を煮やしていました。そうとは知らず都の使者は、途中で音無天神にお参りし、折から咲く梅の香りに心を惹かれ、和歌を一首収めていたのです。
使者は、ようやく本宮に着いたのですが、納品が遅れたことを責められ、勅使に縛り上げられてしまいます。そこへ音無天神の霊が乗り移った巫女が現れ、使者が手向けた和歌によって苦しみを和らげられたと告げ、勅使にその戒めを解くように命じます。勅使は使者のような賤しい者が歌を詠めるはずもないと疑うのですが、使者に詠ませた上の句に、巫女が下の句をつけてその確かさを証したので、使者は縄を解かれ自由の身になりました。
巫女は和歌の徳を褒め称えながら舞い、さらに勅使の願いに応じて祝詞をあげ、神楽を舞います。そのうちに激しい神がかりとなっていきます。御幣も乱れ、飛び上がり、地に臥せるなど激しく狂い舞った後、やがて憑いていた神が上がらせられたと見え、巫女は正気に立ち戻るのでした。
この曲の舞台は紀州の山中にある熊野本宮。清々しい自然に囲まれた聖域で演じられる神秘的な物語は、見る人の心を寛がせて深く広げ、郷愁とも、懐かしさとも呼べるような不思議な感情を呼び起こすでしょう。
大切な巻絹を届けることは二の次で、和歌を詠み、神に捧げることを優先した都の使者の心がけは、神に愛でられました。一方、世の中の決まりごとに縛られる勅使は、都の使者を縛り上げたことを神にやんわりといさめられ、決まりごとや思い込みだけではない、和歌を詠める心のあり様の素晴らしさに気づかされるのです。古来日本では、和歌には神秘的な力があると思われてきました。そこにこのような曲ができた背景があるかも知れません。この和歌の徳を賛美して、巫女が舞いながら、次第に神がかりの勢いを増していく、クセから神楽、キリへと続く一連の場面は大きな見どころです。
その内容も気配も浮世離れした、深い森のなかの出来事にゆったりと身を置き、心で感じていただければと思います。
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