遠江の国(現在の静岡県)、池田宿の女主人である熊野(ゆや)は、京の都で、平家の公達で権勢を振るう平宗盛(たいらのむねもり)に仕えています。このところ故郷の母の病状が思わしくないと聞き、故郷に帰りたいと、休暇を願い出ますが、宗盛は今年の花見までは一緒に過ごそうと言って、聞き入れません。その頃、熊野の一家の侍女である朝顔が、母の手紙を持って訪れます。文には、病状が思わしくなく、今生の別れが来る前に一目でも会いたいという切々とした母の願いがしたためられていました。一刻も猶予はないと熊野は、母の手紙を宗盛に読み聞かせ、帰郷の許しを一心に願います。しかし宗盛は、許すどころか清水寺の花見に同行するように命じます。
春爛漫の中、楽しげな都の人々の様子を見ても、熊野の心は故郷への思い、母への気遣いで沈みがちです。心ならずも酒宴で舞を舞っていると、急に時雨が来て、花を散らしてしまいました。これを見た熊野は、母を思う和歌を一首読み上げました。その歌はかたくなな宗盛の心に届き、ようやく帰郷が許されます。熊野は、宗盛が心変わりしないうちに、と急いで京を発ちました。
この能は、平家物語の巻十に語られた、平宗盛と愛妾熊野のエピソードに肉付けした現在能です。「松風」と並び昔から人々に親しまれ、「熊野松風は(に)米の飯」と言われるほど、飽きのこない面白さが称えられてきました。
話の内容は、平宗盛という権力者に翻弄される美女の姿を描いていますが、この能の最大の魅力は、明るい春の情景と熊野の暗く沈む心象風景という光と影を際立たせて、物語に深みを与えているところでしょう。清水での花見の道すがら、車窓からの風景を美しい詞章の連なる謡で描写し、その情景に熊野の心の揺れを重ねるように、謡、舞が織り込まれ、秀逸です。
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