英国人のB.H.チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は、明治時代に日本に滞在し、日本の文化や言語を研究して、幅広い業績を残した人物です。研究・教育を通じて、日本語学・言語学の発展に寄与し、日本文化や文学作品を海外に紹介したことでも知られています。アイヌ、琉球の研究でも先駆的な業績を残しました。能については、ギリシャ古典劇との類似性や文学的な性格に着目し、詩文学の観点から謡曲を海外に紹介した人として、能楽史にその名を刻んでいます。
チェンバレンは、1850年(寛永3年)に、英国の港町、ポーツマス近郊で誕生しました。スコットランドの旧家の出で、父は海軍少将を務めていました。幼い頃に母を亡くし、フランスの祖母のもとで育てられたそうです。長じて英国のベアリング銀行に勤めますが健康を害し、治療の一環として航海に出ます。船を乗り継いで旅を続け、1873年(明治6年)に横浜港に着きました。
来日後のチェンバレンは、お雇い外国人として職を得ます。1874年(明治7年)から1882年(明治15年)まで海軍の兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教え、1886年(明治19年)からは東京帝国大学の教授となり、日本語学や言語学を担当しました。国語学者の上田万年(かずとし)、岡倉天心の弟で英語学者の岡倉由三郎(よしさぶろう)、歌人で国文学者の佐佐木信綱などを門下生とし、彼らが大家に育つのに大いに貢献しました。
その間、日本文化に目を瞠(みは)り、精力的な研究、翻訳活動を行います。代表作には、日本の和歌についての解説本で、謡曲、狂言の記載もある“The Classical Poetry of the Japanese”(1880年 『日本人の古典詩歌』)、古事記の英訳本“A Translation of the‘Ko-Ji-Ki’”(1883年)、日本の文化や風俗を幅広く解説した“Things Japanese”(1890年 『日本事物誌』)などがあります。
チェンバレンの能への関心は、ある人物との出会いが影響しています。チェンバレンは、東京・芝の青龍寺に住み、そこの僧侶から紹介を受け、近所の旧浜松藩士、荒木蕃(しげる)の家庭教師となり、英語を教えていました。この荒木蕃は、優れた見識と教養を持った人で、ただ英語を習うだけではなく、チェンバレンに日本文化の良質なものを、次々と紹介する役割を担います。『古今和歌集』などの存在を教え、能を観に連れ歩きました。
チェンバレンは元来好奇心が強く、豊かな語学の才能を持っていました。荒木蕃と一緒に、何度も能を観るようになったチェンバレンは、謡曲の世界、そこに展開される和歌の世界に魅せられて、才能を活かし、自分でも和歌をつくるようになりました。女流歌人の橘東世子(とせこ)を荒木から紹介され、和歌を学ぶようになったのです。この橘東世子は、徳川家に仕えた和歌の名門、橘家に嫁いだ人で、自分も天璋院篤姫に仕え、和歌を教えていました。橘東世子から雅な日本語を学びつつ、チェンバレンは、和歌や能についての研究を進めていきます。
能、和歌の研究成果は、先に挙げた“The Classical Poetry of the Japanese”として、ロンドンで出版されます。日本の詩歌が、『万葉集』から『古今和歌集』へ、その後謡曲へ受け継がれたという視点で語り、それぞれの作品からいくつか抽出して翻訳しました。謡曲では「羽衣」「殺生石」「邯鄲」「仲光」の四曲を、加えて狂言の「骨皮」「座禅」の二曲を翻訳しました。彼は能を、日本のオリジナルな叙情詩の生命力を今に伝える芸能であるとして、高く評価しました。不完全な原本からの翻訳など、今から見れば不十分なところは多々あります。しかし、西洋と再び日本が交流を開始したこの早い時期、能を高度な文学作品として紹介したことの功績は、大いに称えられるべきでしょう。
後に出版した『日本事物誌』のなかでも、彼は能に言及し、ギリシャ古典劇と似通ったところを指摘しつつ、その特質をわかりやすく西洋の人たちに伝えました。こちらは1936年頃まで相当版を重ね、多くの人たちの目に触れたと思われます。
【参考文献】