木曽の僧が、近江国の粟津が原で亡くなった源義仲を回向しようと、近江へ向かいます。僧が琵琶湖のほとり、粟津が原への渡し場のある矢橋の浦に着くと、一人の老人が柴を積んだ舟を漕いでやってきました。僧は老人に声をかけ、粟津が原へ渡してほしいと頼みます。老人は、荷物を運ぶ柴舟であり、渡し舟ではないと、いったんは断りますが、出家の僧と出逢えた機会であり、お経にも「如渡得船」という言葉があると思い直し、僧を舟に招き入れ、向こう岸へ出発しました。
舟のなかで、僧が老人に名所を尋ねると、老人はそびえ立つ比叡山はじめ、その周辺の名所について語りました。粟津が原に着いて、舟を下りた僧は、そこにいた渡し守に会い、木曽義仲、今井四郎兼平の合戦について話を聞きます。その後、僧からここへ来るまでのいきさつを聞いた渡し守は、老人は兼平の亡霊だろうと言って、回向を勧めます。
粟津が原に野宿した僧が亡者を回向し、まどろんでいると、夢に一人の武将が現れました。武将は今井四郎兼平と名乗り、先刻の舟に乗せた老人は自分であると明かします。兼平の亡霊は僧に、主君の木曽義仲がいかにして死を迎えたかを語り、自分を弔うよりも、主君をよく弔ってほしいと頼みます。さらに、粟津が原の合戦の様子を語り、口に太刀をくわえて自害した壮絶な最期の様子を見せます。
主人公の今井四郎兼平は、朝日将軍と呼ばれた源義仲(木曽義仲)の家来です。義仲は源頼朝、義経の兄弟とは従兄弟であり、平家と源氏の戦いで活躍し、一時は権力を握りましたが、その後、源頼朝と争うこととなり、源氏同士の戦いに敗れて近江国粟津が原で亡くなりました。
義仲の最期に付き従ったのが兼平でした。兼平は義仲とは乳兄弟でもあり、強固なきずながありました。また、義仲の配下の女武者として有名な巴御前と兼平とは、兄妹あるいは叔父、姪の間柄であったとも伝えられています。能の「兼平」は、特に後半部分で武将としての兼平の言葉や振る舞いを描きあげていますが、その姿を通して、侍の社会における主従の結びつきの深さを、間接的に表しています。
昔の日本では、主従は三世の契りといい、夫婦や親子よりも強いきずながあるとされ、美徳とされていました。しかし現実には、主君に対する裏切り、謀反も頻発しました。ある意味、「兼平」のような主君に最期まで殉ずる姿は、現実にはなかなか見いだせない、絵にかいた理想だったのでしょう。能の作者は、義仲ではなく、あえて兼平という従者を主人公にすることで、侍の持つべき理想の姿を現わしたかったのかも知れません。能の最期の壮絶な自害の様子がそれをより強く示すように思います。
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