都の外れ、西山にある西行の庵は桜の美しいことで有名でした。毎年、花見の客が訪れ、にぎわうのですが、庵主の西行は、静かな隠遁生活が破られることを快く思わず、能力(従者)に花見を禁止する旨を周知させるよう命じます。ところが、禁止令を知ってか知らずか、都の花見客が訪れ、案内を乞うてきました。西行も無下に断れず、庭に入るのを許します。しかし静かな環境を破られてしまったという思いから、「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜のとがにはありける(花見を楽しもうと人が群れ集まることが、桜の罪だ)」と歌を詠みました。
その夜、西行が桜の木蔭でまどろんでいると、夢の中に老人が現れました。老人は、草木には心がないのだから、花に罪はないはずだ、と先ほどの西行の詠歌に異議を唱えてきます。西行は納得し、そういう理屈を言うのは、花の精だからであろう、と老人に語りかけました。老人は、自分は老木の桜の精であり、花は物を言わないけれど、罪のないことをはっきりさせたくて現れたのだと明かします。桜の精は、西行と知り合えたことを喜び、都の花の名所を紹介し、春の夜の一時は千金に値すると惜しみながら、舞を舞いました。
やがて時は過ぎ、春の夜が花の影から明け初めるなか、西行は夢から覚め、桜の精の姿は、散る花とともに静かに、跡形もなく消えていきました。
はじめに、舞台上に引き廻しの布をかぶせ、桜の花を付けた山の作り物が出されます。実はこのなかにシテが入っているのですが、最初は隠れたままで、この山の前にワキ、ワキツレ、アイが登場して、前半の昼間の物語を構成します。その後夜を迎え、ほかの演者が退出して、眠りついたワキだけ舞台に残り、布が外されて、ワキの夢にシテが登場し、二人が会話を重ねていく……という演出になっています。にぎやかなはじまりから、観客は一緒に花見をする感じで物語に引き込まれ、知らず知らず西行の夢に入り、桜の精に遭遇する、その流れが秀逸です。
桜の精が、心のないはずなのに詠歌に異を唱え、また西行と楽しげに会話し、舞に興ずるという、人間らしい姿を現わすのも面白いところです。この曲に限らず、草木の精霊がシテとなる能は、「草木国土悉皆成仏(草木など心を持たない存在も含め、世界のすべてが仏になれる)」という、日本仏教の教えが底流にあります。仏教では基本的に、草木(植物)は心がない(非情の)存在とされ、インドの原始仏教では成仏の対象と見られませんでした。しかし中国や日本に入った仏教では、非情の存在も仏性があり、成仏できるという考えが現れ、定着していったのです。
「西行桜」では、桜の精の清々しく気品のある姿がひときわ印象的です。憂き世を離れて、一時の風雅な出会いをお楽しみください。
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