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春のほころぶ頃、林望先生にお会いした。先生はくだくだと説明するまでもなく、文字通り、博学多才の方。能もみずから実践して奥深く究め、数々の著作を通じて、私たちにもわかりやすく、その魅力や見どころを伝えてくださっている。 近世文学研究の方便、のはずが……編集男子:まずは、能との出会いからお聞かせください。 林望先生:僕はもともと近世文学を研究していた。対象の江戸時代は、謡曲の黄金時代だったんですよ。謡曲は能と離れて、今の歌謡曲かカラオケ的な人気があった。能楽師とは別に、「謡うたひ」と言って謡を専門に教える者もいて、商人も武士も暇のある素人が謡曲を習い、暗記していたんです。そのように共通の知識基盤だった能や謡曲を知らずには、江戸時代文学の研究はできないわけです。例えば井原西鶴をすらすら読めても、彼が謡曲「敦盛」をパロディにした部分がわからない。当時はまだ謡曲の索引本もなく、調べようもなかった。それを知るには自分で謡曲を学ぶに如くはない、と思っていました。 編集女子:ご著書で読みましたが、そこで大きな出会いがあったとか。 林望先生:ご縁がなかったところ、たまたま観世流能楽師の津村禮次郎先生の自宅兼稽古場の真ん前に引っ越したのです。道端で津村先生にばったりお会いして、謡曲、能を習うべき時がきたと思い、早速入門をお願いして、じゃ明日からおいでなさい、となった。30年以上も前の話です。それからのめり込んで、先生の公演があるたび、地謡をやり、時にはツレで出させていただいた。幕後見や後見も務め、装束付けなどの楽屋働きもやるなど、年中能楽堂にいましたね。
編集男子:ほとんどセミプロの領域ですね。 林望先生:はい。ほかにも道具作り、面のあしらいなど、実地に能楽師と同じトレーニングをしていただき、秘伝や口伝の域まで教わりました。単にお稽古ごとで謡曲を習うよりは、関わりが濃厚ですね。謡、仕舞、小鼓、笛をやりましたが、その頃は研究者で家にいる時間が長く、たっぷり稽古できました。よく怒鳴られましたよ、周りの家から。鼓の稽古で、「ヨォッ、ホォッ」と声を出していると響くんですよ。「うるせーッ」と言われたことが何度もありました(笑)。 オペラのアリアのような気持ちよさ編集男子:能にのめり込んでいった理由は何ですか? 林望先生:オペラもそうですが、人間の鍛錬した声は、何か心に響く、非常に気持ちのいいものです。故・坂真次郎さんや梅若六郎さんなど、真の素晴らしい美声の方々が謡われると、面をかけていたって関係ないですね。部屋全体がびりびりする。その声で、あの韻々とした謡を謡う。オペラのアリアと一緒の気持ちよさがある。オペラは外国語でわからないけれど、謡は日本語でしょう、何と言っても。僕は国文学の研究者だから古文もわかる。また聴くだけではなく、演じる側に廻ると、より深い楽しみも出てきますしね。 編集男子:お好きな曲、謡って気持ちのいい曲は何でしょう? 林望先生:皆とりどりに、良さがある。なかでも、やはり世阿弥の作品は絶対的に良いものが多い。自分が好きな曲だと何だろう……。難しいですね。絞りきれないですよ。強いて言うなら「清経」や「経正」など、哀れさのある平家ものはいい。「隅田川」もいいし、「小袖曽我」も悪くない。「巴」も好きだなあ。また「東北」や「羽衣」など、幽玄味の強い三番目物は、謡っていて気持ちいい。舞台で謡って気持ちいいのは何といっても修羅ノリです。「田村」のような曲は最高にいいですね。「石橋」のような祝賀ものもいい。 編集女子:ほかに先生が感じておられる能の魅力は、どういったものですか? 林望先生:能のサイズは1時間半くらいが普通で、日本の伝統芸能のなかでも、特にコンパクトです。長くても2時間集中して見聞きすれば、ひとつの完結したメッセージが伝わるところがいい。もうひとつの魅力は、能が外国人にも普遍的に理解されるものをもっているところ。言葉の壁はありますが、動きは非常に集約されたコアなものしかありません。そのシンボライズされた動きは、ギリシャ古典劇にも通じる、非常に普遍的なものだと思います。だからこそW.B.イェイツやベンジャミン・ブリテンら、欧米人の琴線にも触れたのでしょう。そういう意味では、昔の芸能でありながら、非常にモダンであるとも言えます。今の若い人が見ても、半分わからなくても、どことなく魅力を感じるんじゃないかな。 まずは慣れる。と、面白くなってくる編集女子:今の若い人、外国の方同様、私もズブの素人なのですが、はじめの頃は、いずれも眠りに誘われて(笑)。でも最近、「海人」を見て惹き込まれ、眠るどころか涙が浮かぶほどの感動をもちました。
林望先生:確かに能は、必要以上に様式的でして。橋岡久馬さんのように、あえてそれを破ろうと演じられた方もいますが、武家の式楽であった関係で、もったりしすぎた感はあります。だから退屈するのは仕方がないんです。時間の流れ方への慣れが必要でね。 編集女子:慣れとともに、勉強の必要性も感じています。 林望先生:勉強は絶対必要です。すべてが言葉に集約されていて、例えば道行であれば、行く道々の景色を言葉で述べていく。だから言葉が理解できないとどうにもならないわけです。想像力が試される。そこが非常に大きい要素ですから、見所の人たちもぼんやりしていてはいけない。能は、必死に脳みそを運動させて見ないといけないんです。「海人」を退屈せずにご覧になれたというのは、だいぶ見慣れてきたんですよ。言葉が放つメッセージを、頭の中で翻訳できるようになってきたんでしょう。 謡曲を芸能として教わる人が、能をわかっているとは限らない。習うのも諸刃の剣で、ともすると意味をろくに考えず、ただ謡うだけになる場合もある。僕はテキストから入ったから、一つひとつの言葉が何を意味しているのか、非常に頭の中で考える。そうすると、これほど美しい文章には、なかなか出会えないことがわかるんです。 編集男子:それは非常に感じます。言葉のひと言ひと言にいろいろなものがつまっている。 林望先生:凝縮されていますからね、多義性もあるし、余分なことを言わない。ひとつの言葉で表現される内容がすごく大きいわけですよ。「砧」や「頼政」ほか、世阿弥作のものは、その性格が顕著です。殺伐とした修羅物でさえ、前シテのところで、実にしみじみとした風景が出てくる。そういう情景を想像してみると、日本はきれいな国だなあ、と思わず感嘆します。外国人には、言葉でその風景は伝わらない。僕ら日本人は、例えば近江八景と言えば、そのイメージをもてるんです。雪が降った時の景色はどうか、月が出た時の景色はどうかというような。何も言われなくても共通にわかる日本の風景美、人情を知って能を見られるから、僕らには大変なアドバンテージがある。日本人にしかわからないこともいっぱいある。それを「わからない」と退けるのは、もったいないと思うんですよ。 編集女子:初心者の自分が能を見るのは、外国の方と同じだと思っていたんですが、そこは違うんですね。勇気をいただきました。 林望先生:ひと言加えれば、日本人は時間に対する無常観をもっていますよね。無常、世の中に滅びないものはないという観念は、日本人の共通理解です。だからこそ、修羅物のような滅びの美学が、僕らにはしみじみと伝わってくる。また、長い時間が経ったことを、ほんのひと言で表す時間感覚もある。そこは、なかなか外国の方にはわからないでしょう。昔のことだから、恨みを忘れて水に流そうという観念だとかもね。 編集男子:外国の方に、能を伝えるのは難しいところですが、当サイトでは、外国人、初心者を含め、多くの人たちに、能の魅力を広められればと思っています。初めて能を見るような方々に送る、先生からのメッセージをお聞かせください。 林望先生:能を見るのに絶対必要なのは、能楽堂に行くことです。能楽堂に行って、あの声が、バイブレーションとして伝わる空間を共にするところに良さがある。例えばテレビで能を見る。つまらないですね。能の実技者なら、他流はこうやるのか、といった興味でテレビやDVDを見る価値はある。ですが、映像で能の面白さは伝わりません。半分もわからない。オペラもそうでしょう? テレビで見たんじゃつまらない。オペラハウスで生で見て初めて、オペラは面白いんですよ。日本のオペラである能もそうなんです。マイクを使わずに、ああやって人びとの心に振動を届ける凄さ。これは、やはり是非、見に行ってほしい。国立能楽堂の普及公演もありますし、能楽の結社が主催する例会なら、3000円ほどの値段から見に行けます。無料の若手の勉強会(編集部注:宝生流の青雲会ほか)のように、手軽に楽しめるものもある。だから是非、能楽堂に足を運んでいただきたい。 わかりやすい言葉で面白さを伝える、という使命編集男子:先生は、能に関する著作や公演時の解説などを通じて、能の普及にも熱心に取り組まれています。そこには、どういう思いがあるのでしょう?
林望先生:僕は、自分を能の翻訳者だと思っている。能の世界は、普通の人には隔絶していますよね。僕だって、大人になるまで能を見に行く機会はなかったし。チケットも高い、場所もよくわからない、見に行ったら行ったで、言葉が難しく理解を絶している。動きも少なく、何をやっているのか不明である。そういう敷居の高さが能にはある。だけど実際に僕がやってみて感じるのは、決して難しいことはないということです。能は、千古不易の人情、すなわち親子の情愛、恋人の思い、君臣の義だとかを扱っている。その意味では、忠義のために我が子を毒殺するといった、途轍もない物語がある歌舞伎などよりずっと自然です。能に不自然なところは何もない。そこをわかってほしい。 でも能楽師の方が解説すると、「いや、わからなくても気分を味わってもらえればいいんです」と言いがちですよね。一方で、学者先生の言になるとすぐ、「出典はどうだ」とか難しくなってしまう。だから僕は一般の人が読んで、非常に面白く読めてわかりやすく、しかし読むと「ああ、能ってこういうところを見るのか」というのがわかるようにしたかった。いわゆる翻訳者という役割に自分の拠って立つ基盤がある。僕は、国文学と能の実技の両方をやって、能を舞台の上からも下からも見てきた。実技者であり、研究者であり、同時に物書きである。僕には、わかりやすい言葉で、能を人びとに伝えるという使命があると思っています。ミッションですね。 編集男子:それに関して、是非お知らせしたいことがあります。私は、先生にお会いする前に読もうと思っていたご著書を、家のなかに積み上げていたんです。それを、能にまったくの門外漢である妻が、ふと手にとって読みはじめたところ、面白さにはまってしまい、あっという間に読み終えたんです。ついには、あの能を見たい、この能はどうだと、言い出しまして……。わかりやすい本をありがとうございますと、御礼の言葉を伝えてほしいと言われてきたんですよ(笑)。 林望先生:いや、そういう話を聞くと本当に嬉しいですね。やはり能って面白い、と思ってほしい。「わからなくても気分を感じて」とか、「装束が美しいからいいですよ」といった言動でお茶を濁すのは、僕は少し無責任だと思うんですよね。 編集女子:それだと能を見に行っても、一回で終わってしまうかもしれません。 林望先生:そうです、面白さをわかったことにはならない。僕は、もっと一生懸命に、真剣に能を見てくださいと言いたいんですよ。能は、何百年以上の長い年月をかけて、先人が彫琢に彫琢を重ねてきたものですからね。それを気分だけで見るのでは、寂しい。そうじゃない。イギリス人がシェイクスピアを見るように、我々は能に、まじめに対峙すべきだと思います。 上手は下手の手本、下手は上手の手本編集女子:先生は実技に通じるのみならず、東京芸大で能楽師の卵たちに教えられた経験ももっておられます。次代の能楽師たちへのメッセージを含め、能楽界に望むことをお聞かせください。 林望先生:東京芸大で会った学生たちは、一様にまじめで気持ちのよい連中でした。彼らを含め、能楽師に希望するのは、能は芸能であると同時に文学なんだという意識をもってほしいということですね。歌舞伎や浄瑠璃の文章は、一部を除き、読んだって面白くもおかしくもない。けれども能は、ひとつの叙事詩として素晴らしい力をもっている。だから能楽師も、師匠から教わったことをオウム返しにやるだけじゃなくて、これはどういう内容で、どういう情景だ、何をメッセージとしているんだ、ということをよく勉強してほしい。勉強して、自分なりの解釈で演じてほしい。そうして独自に切り拓いたものが、古今の名人たちの足跡だと思うんです。 今は亡きある有名な能楽師が、他の人の舞台を幕の脇からじっと見つめる姿を、楽屋裏で見ていたことがあります。本当に優れた人は、自分が演じない時でも、そうやって他人の演技を研究している。世阿弥も、上手は下手の手本であると同時に、下手は上手の手本だとも言いました。名人上手の能を研究のために見るのは当然だけれども、ステイタスが上の人たちも、若い能楽師の能を見て学ぶところがあるんじゃないか。そういう意味で、世阿弥の伝書などもきちんと読んでほしいし、もっと研究し、勉強して能をやるべきじゃないかな。それが最大の希望です。(インタビュー:2008年3月) |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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