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さすがに現代の「殺生石」に毒気はないし、蜂や蝶が地面が見えなくなるほど重なって死んでもいません。が、たくさんの白い石の中に、赤いよだれかけをかけたお地蔵さんの群列。そして硫黄の湯気がところどころに噴出すさまは、まるで死の国にさ迷いこんでしまったかのような錯覚すら覚えます。
現代でもそうなんですから、まだ毒気が残っていた芭蕉の時代の殺生石ってすごかったんでしょうね。
そんな殺生石を一見したあと芭蕉たちは、いよいよ念願の「遊行柳」に向かいます。『おくのほそ道』前半の旅の中で、芭蕉がもっとも寄りたかった名所のひとつ。西行ゆかりの柳です。
殺生石から遊行柳までの道は県道が通っていますが、できるだけそういう大きい道を避けて歩こうとすると、いまでもちょっと不思議な感じがして、ここが現代の日本であることを忘れそうになります。殺生石の毒気にあてられたまま車の道を避けながら遊行柳に向かう。
やがて田の中に柳が見えてきます。
この柳を芭蕉は「清水ながるゝの柳」と呼んでいます。西行の歌からつけた名前ですね。正確な意味では歌枕ではない。が、もうこれは完全に歌枕に準ずる扱い、というか、歌枕以上の扱いを受けている名所です。
「清水ながるゝの柳」と呼ばれる由来となる西行の歌です。
道の辺に 清水流るる 柳陰
しばしとてこそ 立ち止まりつれ 西行
芭蕉はこの柳の蔭に立ち寄った時のことを「今日この柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ」と書いています。「立ち寄りはべりつれ」という言葉は、西行の「立ち止まりつれ」をパロディすることによる西行へのオマージュですね。
そこで一句。
田一枚植えて 立去る 柳かな
能のワキも歌枕などでは歌を詠ったり、古歌を詠じたりします。そこに草木などの自然物があれば、それに向かって詠うことが多い。
と、能では必ずといっていいほど「のう、のう」とシテに呼びかけられ、だんだん異界に誘い込まれていくのです。
西行ゆかりの「清水ながるゝの柳」に向かって詠いかけた芭蕉、当然ここで「のう、のう」を期待していたのかも…と思いきや、実はこの句の中にすでに「のう、のう」が含まれているのです。
「田一枚植えて 立去る 柳かな」の句は、大変論争の多い句です。
議論の争点は、田一枚を植えたのは誰か、そして立ち去ったのは誰かというところ。
これが「田一枚植えて立ち去る〈乙女〉かな」だったら問題でも何でもない。田を植えるのも乙女だし、立ち去るのも乙女。
で、これと同じように読むと〈柳〉が田を植えて、立ち去るとなる。
でも「そんなことあるわけないじゃん」と思うので論争になる。が、これは近代人の悲しさ。
前にも書いたように日本人は目に見えないものも見ることができる。能は日本人のそのような能力に期待するから舞台上に大道具も置かないし、照明も使わない。
ましてや芭蕉は詩人。見えないわけがない。となれば、芭蕉の目に見えた、幻想の柳の精が田を植え、そして立ち去ったと読むのが普通ではないかと思うのです。
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芭蕉は、「清水ながるゝの柳」に「しばしとてこそ」立ち止まった。ここは西行や、能『遊行柳』のゆかりの地。
畔に座って柳を眺めているうちに芭蕉は思わず、能『遊行柳』の謡を口ずさむ。口ずさんでいるうちに眠くなり、半覚半睡状態になる。
すると、そこに能のシテである老人の柳の精が現れるのです。この柳の精は、西行の霊でもあり、西行の詩魂でもあります。
柳色の装束を着た精霊が幻影の中でゆるゆると舞ううちに、土色の田が緑に変わっていく。もちろん実際に田を植えているのは早乙女かも知れない。でも、その姿は背景となり、芭蕉の「もうひとつの目」に映った能のシテが田の上を舞っているのです。
能の柳の精霊は、僧の「御法(みのり)」に感謝して舞台から立ち去りますが、芭蕉の幻影のシテは、田を自分の装束色に田を染めて、やがてくる「稔り(みのり)」を約束して立ち去るのです。
しばしとてこそ立ち止まった西行の詩魂の霊魂が、いま芭蕉の目前で立ち去ったのです。
(2012年4月)
安田登 プロフィール
1956年生まれ。能楽師、ワキ方、下掛宝生流。公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)。著作に『異界を旅する能』
『身体能力を高める「和の所作」』
『身体感覚で「論語」を読みなおす。』
『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』
など多数ある。
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