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能の物語の多くは、 旅人である“ワキ”が、ある所に行きかかり、 亡霊や精霊である“シテ”と 出会うところから始まります――。 連載「ワキから見る能の世界」では、 舞台でワキ方として活躍されている安田登氏に、 旅人・“ワキ”の目線から見た、能の世界を語っていただきます。 松尾芭蕉は西行にあこがれて旅をした能のワキ僧にあこがれて旅をした人はたくさんいますが、もっとも有名なのは江戸時代の俳人、松尾芭蕉でしょう。 あ、「ワキ僧」って言葉、あまり馴染みないですね。ワキの役は旅の僧が多いので、ワキ僧といったりするのです。さて、そんなワキ僧に芭蕉はあこがれていた。 芭蕉も、そして芭蕉の一門の人たちも能、特に「謡(うたい)」にはとても親しんでいました。平安時代の歌人、藤原俊成は「源氏読まぬ歌詠みは遺恨のことなり」といいましたが、芭蕉の弟子である宝井其角はこれをもじって「謡(うたい)は俳諧の『源氏』」と言い、俳諧師は謡を知らなければならないといいました(ここら辺の話、いつか詳しく書きます)。 芭蕉は、旅の歌人、西行も慕っていたといわれていますが、芭蕉が知っていた西行は、現代の私たちが知る歴史上の西行ではありませんでした。彼にとっての西行は、物語の中の西行であり、能の中の西行でした。『おくのほそ道』をはじめとする彼の紀行文の多くは、自分自身を能の物語の中の西行や、能のワキ僧に擬して書かれているのです。 さて、二四〇〇キロに及ぶ『おくのほそ道』の旅。その中でも那須周辺(栃木県)は不思議なエリアです。 深川・芭蕉庵を出た芭蕉は約一三〇キロを一気に歩き抜き、三泊四日で最初の目的地「日光」に到達します。一日の平均歩行距離は三十キロ以上です。 日光の古名は「二荒(ふたら)」。 「ふたら」とはサンスクリット語のポータラカ、すなわち観音の霊山です。ちなみにチベット語ではポタラ。観音の再誕と言われるダライ・ラマの居住する宮殿がポタラ宮です。 観音の霊地である日光は、当時は大御所・家康の霊廟。観音の霊地と大御所の霊廟という、まさに聖地中の聖地が日光なのです。 そこで彼はバーチャルな死の体験をします。それは、過去の自分を捨てるためです。 能のワキ僧の次第(最初に謡う謡)に、身や世を捨てるというフレーズがよく出てきますが、芭蕉も能のワキ僧としての旅をするためには、一度、身を捨てる必要があったのでしょう。
仏教で「中有」と呼ぶなんとも中途半端な時期死の体験によって過去の自分と決別した芭蕉は、つぎに問題の那須周辺に至るのですが、那須を抜けて次の目的地である白河の関までは約七十キロ。日光までのペースで歩ければ二、三日で到達できるはずです。が、ここで芭蕉はなんと約二十日間を費やします。 その間の芭蕉の旅程はなんとも不可解。あっちに行ったり、こっちに行ったり、ぶらぶらしています。これが物見遊山の旅ならば、まあこういうこともあってもいいだろうとは思うのですが、『おくのほそ道』全体はかなりシャキシャキと歩いている。その中で、那須周辺のこの数日間の芭蕉の行動はなんとも不可解なのです。 まるで次元の違う迷宮に迷い込んでしまったかのようです。 「死と再生」などといいますが、仏教では「死」と次の「生」の間には「中有」という死でも生でもない、なんとも中途半端な時期があります。その間に死者は、中有の旅を続けながら閻魔大王に会ったり、次の生を決められたりとするのですが、その旅は距離、すなわち「空間(水平)」の旅ではありません。「時間(垂直)」の旅なのです。 距離にしては短い那須の旅。それにこんなに時間をかける芭蕉たちも、まるで中有の迷宮に迷い込んで、出口のない旅をしているようなのです。 そんな不思議な那須の迷宮に迷い込む、最初の章を紹介しながら、今回は能と『おくのほそ道』との関係を見ていきましょう。 芭蕉にとって「遊行柳」は特別なはず……日光を出た芭蕉は、那須野の原を抜け、知人のいる黒羽に赴こうとします。 茫々たる草野原であった那須野を前に立った芭蕉たちは、遥か遠くにひとつの村を見かける。 「今日はあそこまで行こう」 そう思って「直道(すぐみち)」を歩き始めます。「直道」とは、その村までの一直線の道、あるいは近道などと注釈書には書いてあります。そんな道を芭蕉は選択した。 …と、能に詳しい人ならば、ここで「おい、おい」と思うはずなのです。少なくとも謡に親しんでいた芭蕉一門の人はそう思ったはず。なぜか。 芭蕉が行こうとしている那須は能『殺生石』や能『遊行柳』ゆかりの地。しかも芭蕉は、西行法師を慕う旅。となれば中でも『遊行柳』は、特別の作品です。 西行が歌を詠んだことによって、まるで歌枕に準ずるような扱いを受けることとなった那須の老柳。それをさらに有名にしたのが能『遊行柳』なのです。 その『遊行柳』の中で、やはりワキ僧が「広い道」を選択しようとすると、そこに老人が現れて、広い道ではない昔の道を教えてくれるのです。 遊行柳に向かう芭蕉は、「直道(すぐみち)」なんていう安易な道を選択してはいけないのです。 が、直道を歩き出した芭蕉たち。ひょっとしたら芭蕉も「能と同じように老人が現れてくれるかも」と思っていたのかも知れません。 が、残念ながら彼の前にそんな老人は現れず、芭蕉は歩を進めます。 と、突然の雨。しかも日まで暮れてしまう。 あれ、なんだか能みたい…でしょ。そう、能で天候の変化があり、日が暮れると何かが起こる予兆なのです。 でも、残念ながらここでは何も起こらず、芭蕉は農夫の家に泊めてもらう。 一夜明け、突然「能の世界」が出現さて、翌日、農夫の家を出て野中を行く芭蕉たち。昨日と同じようでありながら、何かが変わっていた。劇的に、しかし芭蕉たちはそれと気づかず。 そんな彼らの前に野飼の馬がつながれていました。近くには草刈の男がいる。 芭蕉は思わず、草刈男に嘆き寄ります。『おくのほそ道』本文には、ただ「嘆き寄れば」とあるので、何と嘆き寄ったかはわかりませんが、たぶん「馬に乗せてくれ」とでも言ったのでしょう。 昨日までは、あんな元気に旅を続けていた芭蕉が、馬と草刈男を見た途端に嘆き寄る。変です。体調の急変。 それに対する草刈男の返答も不思議です。 「どうしようか」とひとりごちたあと「この道は縦横に分かれて、はじめての旅人は道を踏み迷うでしょう」と言う。 縦横に分かれる道? 昨日の「直道」はどこに行ったのでしょう。能『遊行柳』の中で、ワキ僧は「道が数多ある」といいます。昨日の「直道」がどこかに消えうせて、能『遊行柳』の「数多な道」が、ここに出現したのです。 さらに草刈は「この馬の留まるところで、馬を返してください」といいます。馬を貸してくれるだけでなく、草刈は馬に道案内までさせようとしています。 そして、これも能『遊行柳』。 『遊行柳』の中で道案内してくれる老人は、自分を老馬にたとえて「老いたる馬にはあらねども、道しるべ申すなり」といいます。 なんたる符合! 一夜明けて、ここに能の世界が突然、出現したのです。
いよいよ能の世界に迷い込んでいく芭蕉たちその馬に乗って那須野を行く芭蕉。 …と見れば幼い子どもたちがふたりあとについてきます。ひとりは女の子。芭蕉は名を問う。と「かさね」という。 茫々たる草野原である那須野を、芭蕉を乗せて走る馬。そして、その跡を慕って走るふたりの子ども。 不思議な風景です。 芭蕉は「優雅な名だ(聞きなれぬ名のやさしかりければ)」と思い一句、詠みます。 「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」 ちなみにこれは『おくのほそ道』の中では同行者である曾良(そら)の句ということになっていますが、どうも芭蕉の句であるらしい。 「かさね」から「八重」がイメージされ、それから「八重撫子」が連想された句であると言われていますが、これはかなり幻想的な句です。 「かさね」とは「襲ね」。合わせの色目です。貴族の女房の装束で、さまざまな色が徐々にグラデーションしていく美しさ。 こんな田舎(あ、那須の人、すみません。昔の話ね)に、都の、しかも貴族の女房の装束の「襲ね」の名を持つ少女。それだけでも「優雅な名だ(聞きなれぬ名のやさしかりければ)」です。しかし、それだけではない。 さきほどの草刈男は、たとえばこれが能『項羽』の草刈ならば花も持つ人。ひょっとしたら八重撫子を持っていたかも知れない。いま自分のあとを慕って走る「かさね」は、その撫子の化身なのかも知れない。そう芭蕉は思ったかも。 「襲ね」はグラデーションによる色目です。 植物の八重撫子が、徐々にグラデーションしていき、「かさね」という名にメタモルフォーゼしていくような錯覚も覚えるような句です。植物が人間に変容する。 あ、ちなみにこの句が詠まれたのは初夏。撫子が咲いているはずがありません。 が、襲ねの「撫子襲」は夏の色なのです。 …というわけで、能の世界に迷いこんでしまった芭蕉たち。那須の最重要スポットである「遊行柳」では、さらに「能」的な体験をします。 それは次回! 安田登 プロフィール |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|運営会社|
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