トップページへ
SITE MAP
FEATURE

能楽師に聞くNoh Talk

能楽師に聞く 第2回 観世流シテ方 梅若家当主梅若玄祥

聞き手:内田高洋(the能ドットコム) 写真:大井成義

第2部 修行の道を辿って

現行曲の検討から、復曲、新作へ

内田 子方から修業の時代にかけて、先生が年代ごとにどのように歩んでこられたのか、お聞かせ願えますか。

梅若 初舞台は「鞍馬天狗【→演目事典】」の花見、3歳のときでした。当家は男の子が私ひとりで、父(五十五世梅若六郎)は何とか私にやらせようと、だましだましでのことだったようです。その頃はちょうど祖父(二代梅若実、五十四世梅若六郎)が、まだ舞台には立っていたものの隠居していまして、毎日、稽古してもらいました。

それは稽古という感覚ではなかったですね。遊びながら舞台のことを教わっていました。11歳のときに祖父は亡くなりましたが、その時までは99パーセント祖父から教えてもらいました。

内田 99パーセントですか。

梅若 父は、ほとんど祖父に任せていましたね。子どもの頃は、あまりいろんな人に稽古を受けると迷うんです。自分でも手取り足取り教えたかったでしょうが、祖父ひとりに任せた父は偉かったと思います。祖父自身は、家の当主が最後の稽古は見るべきだという信条があって、稽古の最後は、家督を継いだ父に見せるようにしていました。でもそれは、かたちだけでした。父が口を挟むことは、ほとんどありませんでした。

おかげさまで祖父から「石橋【→演目事典】」や長刀物、「鷺乱」まで稽古してもらいました。ここまで習えれば幸せなことです。当時は、そんな実感はありませんでしたけれども。こうして、これから能の方に進むという骨格めいたものができるまで、祖父に見てもらい、そこから父に教えられる時代を迎えました。

観世流シテ方 梅若家当主 梅若玄祥 観世流シテ方 梅若家当主 梅若玄祥

無理をすることで、本物の稽古になる

梅若 12歳頃ですが、子方ではないし、大人でもない。一番中途半端な時期です。その時期でも、父は普通の稽古を課しました。私はすごく変声期が長く、声が出ませんでした。大人か子どもかわからない声で謡うのですが、無理をしてでも出せと言われまして。それが父の方針でした。そんな稽古が十代半ばまで続き、15、6歳になりますと、もう完璧に大人扱いされました。

内田 昔なら元服の頃ですね。

梅若 そのことも頭にあったかもしれません。当時は、今なら、ありえない曲を舞っていました。

内田 たとえばどういう曲でしょうか。

梅若 16歳のときに「班女【→演目事典】」を舞いました。今思うと「親父、何考えてるの?」というぐらいのものなのですが。

内田 何かお考えがあったんでしょうか。

梅若 無理をすることが必要だと考えていたんでしょう。高いところを目指すなら、無理をすることが大事で、それは当然なんですね。何歳だから無理だと考えないで、大人と同じように稽古をし、そういうものだと思ってやっていかないと、将来、本物の稽古にならない。正直に言いまして、それは苦しかったですよ。それを経て、17歳には、「道成寺【→演目事典】」をやりました。

内田 17歳で「道成寺」ですか。それはすごいですね。

梅若 後で聞きましたが、ひとつには、名人の十四世喜多六平太先生が17歳で「道成寺」をなさったということがあったそうです。私など、とても同じ次元に立てるものではありませんが。またもうひとつは、祖父から早くに「道成寺」をやらせなさいと遺言があったそうなんです。手塩にかけた子どもで、早く見たかったという思いがあったんでしょう。それで祖父の七回忌に出させていただきました。

17歳、まだまだ子どもですよ。いいのか悪いのかわかりませんが、怖いという気持ちはなく、ひたすら稽古を重ねてやりました。

内田 まさに、その場に飛び込んで行かれた。

梅若 人様にお見せできるものじゃないのはわかっていた。でも無理を承知でやったわけです。あとで父が述懐していました。「お前を幕から送り出したはいいけれど、帰ってこられるか、心配だった」それは本音でしょうね。心配で、でもそこを通り抜けなければお前の将来はない、というのが父の考えだったと思います。

それに私は、父が四十代になってから生まれた、遅い子だったんです。周りの能楽師の息子さんは、もう一人前になって二十代の人が多かった。その世代の一番年長が観世寿夫さんでした。そういう環境で、父には焦りもあったというのは、後に聞きました。「彼らの仲間に、お前をどうしても入れたかった、だから、無理を承知でやらせた」というのです。

内田 そうでしたか。

梅若 20歳を過ぎますと一門の能楽師と同じで、特別に扱われることはありませんでした。素人のお弟子さんは、もう教えるようになっていましたが、23、4になりますと、今度は玄人を教えるように言われました。それも、変な言い方ですが勘が鈍い人を任されるようになったんです。

彼らをどう仕立てるのかが課されたわけです。なぜ父がそうしたかというと、私の勉強になるからなんですね。本当に苦労しました。知らないことはきちんと学んで教えなければならない。わからないことは、父に聞き、先輩に聞き、家にある伝書類も読みました。伝書を読む習慣はその頃につきました。十代の頃、伝書は見せてもらえず、読みもしませんでした。父の言葉をすべて書き留めて学んでいました。

その頃から伝書を読み始めたのですが、それも訓練のひとつです。古い書物ですから、読み間違える場合もある。それを回避してどう正しく読み解くかの訓練です。二十代前半はそのように、聞いては学び、読んでは学びを繰り返していました。

内田 そこが吸収の時期だったわけですね。

梅若 その後、ちょうど私が30歳のときに、父が亡くなりました。それまでに、かなり見聞きして、老女物以外は稽古も受けていました。父が病に伏してからの話ですが、当時、同門の古い方々が、老女物も含めて難しい曲を演じる歳になっていました。ですから、かたちだけでも私が父の代理で教えなければならない。病床にいた父の枕元で話を聞いたり、寝ながらでも型を教えてもらったりしました。これが結構勉強になりましたね。

父が亡くなって数年後、三十代で「卒都婆小町【→演目事典】」をやらせていただきましたが、それは、何となく父に稽古してもらったように思います。それ以降は、ひとりぼっちです。でも、いろいろな人に教えを受け、協力していただきながら、今まで歩いてくることができました。(第2部 終)

観世流シテ方 梅若家当主 梅若玄祥 観世流シテ方 梅若家当主 梅若玄祥

◀ 第1部 「能の原点は何か」を常に問いかけて


観世流シテ方 梅若家当主 梅若玄祥(うめわか げんしょう)
1948(昭和23)年生まれ。1951(昭和26)年、能「鞍馬天狗」子方にて初舞台。1988(昭和63)56世梅若六郎を襲名。2008(平成20)年には二代梅若玄祥に改名。
現在、人気、実力ともに第一人者として活躍。廃絶された能の復曲、新作能の上演も積極的に携わり、様々な演出を試みるなど、今日に生きる古典芸能としての能を支えている。また、海外への能の紹介にも意欲的で、海外初の能面・装束の展覧会を開いたほか、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアでも公演。ホール能の先駆者的存在でもある。能楽界のみならず国内外の様々な分野の芸術家達に、「幸運にも今、我々が目にすることが出来る人類の宝」の一人として崇拝され常に注目されている。
重要無形文化財保持者各個認定(人間国宝)、日本芸術院会員、一般社団法人日本能楽会理事、公益社団法人日本演劇協会理事、公益財団法人梅若会理事長、梅若能楽学院学院長、能楽企画「狐陸」代表

インタビュアー:the能ドットコム 内田高洋(うちだ たかひろ)
京都大学で宝生流のサークルに入ったことをきっかけに、能楽に魅了される。以降、シテ方宝生流の謡と仕舞を中心に、森田流の笛や葛野流の大鼓の稽古にも勤しみながら、能楽全般について、実践と鑑賞そして学びの日々を送る。現在、シテ方宝生流の機関誌「宝生」の編集・原稿制作にも携わっている。


免責事項お問い合わせ運営会社
Copyright© 2024 CaliberCast, Ltd All right reserved.
dthis_config.data_track_clickback = false;